魅惑の香り
よろよろしながら休憩室に入ると、今日の晩御飯のいい匂いがした。あー、またおなかなりそう。
「お疲れ様です〜…」
「おー伊智子、お疲れ」
ソファに座って食事を取っていた司馬昭は、大きく片手を振って伊智子を出迎えた。
この時間は休憩をとる人が少ないのだろうか?休憩室にはもう一人、換気扇の前でタバコを吸っている人がいたので、そちらにも頭を軽く下げながら、伊智子は誘われるようにいい匂いの発生源へと歩いていった。
部屋の隅に置かれたワゴンには、一升炊きの炊飯器と業務用レベルの大きな鍋がそれぞれ二つ置いてあった。
今日の晩御飯はカレー!正直、受付にいる間からかすかに匂いが香ってきたので、我慢するのが大変だった。
鍋のふたをあけると、鼻腔をくすぐるスパイシーな香りが湯気とともに視界いっぱいに広がる。
炊飯器の横に積み上げられたカレー皿を1枚とり、炊きたてご飯にカレーをよそい、ソファーに座る。
「あーおいしそう。いただきます」
伊智子はスプーンで一口すくう。ごろごろと入った野菜がおいしそう。
大きな口でほおばった。
「うめーよなーねね殿のカレー」
「はい、とっても美味しいです」
正面に座っていた司馬昭が口いっぱいにカレーをほおばりながら言った。
伊智子はお水をひとくち飲んでから、にっこりと頷いた。
司馬昭はここで働く医師だ。とっつきやすい性格が若い女性にとても人気なのである。
ちょっとだらしなく(見る人が違えば、セクシーとも言う)胸元の開いた服を着て、控えめかつおしゃれなアクセサリーが素肌にきらりと光る。小麦色の肌と白い歯がなんともさわやかな美青年だ。
ちなみに司馬昭には兄がいて、その兄もここで医師として働いている。
…ん?医師?伊智子はここである1つの疑問を抱いた。
「司馬昭さん。晩御飯食べて大丈夫なんですか?」
医師は診察中、お客様と一緒に食事をとることが多いので、通常は従業員用の食事はとらない。
なので、休憩室に医師がいる時は、大体がたばこ休憩だったりする。
しかし現に司馬昭はもぐもぐとカレーを美味しそうにほおばっている。
…伊智子の記憶が正しければ、今日はもう2組くらい予約を通したはずだったが。
「あぁ、俺さ、今日起きた時から「カレーの腹」だったんだよなー」
司馬昭は「よくぞ聞いてくれました」みたいな顔して伊智子のほうを見た。
「そしたら晩飯がカレーだって聞いてさ。どうしてもねね殿のカレー喰いたかったから、診察中、客に飯どうするか聞かれたら腹いっぱいっつって断ってた」
だから今すんげー腹ペコ!と、白い歯を輝かせて言うが、ほっぺにカレーついてますよ。
「ええ〜、いいんですか、それ」
「だってよー客用のカレーってすげえ甘いんだもん。具もなんかちまちましてるし。ていうか、そもそもあんまり頼まれないし。俺は適度に辛くてでかい具がごろごろしたのが大好きなんだ」
そ、そんな少年のような顔をされましても。
なんて言葉を返せばいいか迷っている伊智子を尻目に、司馬昭はおかわりをつぎに腰をあげた。
上機嫌で鼻歌まで歌ってしまいそうな司馬昭を見てると、なんやかんやと言いたいことも飲み込んでしまいそうになる。
大盛りお代わりをよそってきた司馬昭は「よっこらせ」とソファーに座った。
そんな司馬昭の背後に1つの影が覆いかぶさった。ふわりと香ったたばこのにおい。
「ダメだろ、司馬昭。女性のおねだりを無碍にしちゃあ」
先ほどまで換気扇の前でたばこを吸っていたが、いつのまにか司馬昭の座るソファの後ろまで移動していた。
そのまま背もたれにひじをつき、司馬昭の肩にアゴをのせた。
「…あー、そういう話はいいよ、兄上からの小言で十分だ。あーめんどくせ」
司馬昭がうっとうしそうに孫市の顔を手ではらうと、その男は素直に背中からどいた。
そのままゆっくりと歩いて、伊智子の隣へどっかりと座る。
「な?伊智子もそう思うだろ?」
「孫市さん、ベテランですもんね」
「ふっ…よせよ。照れるぜ」
雑賀孫市は三成たちに次いで、このクリニックに初期から働いている医師だった。
無精ひげもよく似合っていて、孫市の魅力を引き出していると思う。
女性への態度も紳士的だし、優しい。実際固定客はたくさんいるし、古株なだけあって仕事も手馴れている。
ただ1つ、マイナス面をいうとしたら…よく言えば、博愛主義。なところだろうか。
そんな孫市は伊智子の隣に座ったまま、静かに話を再開した。
「もしかしたら今日来た子は、毎月の給料から少しずつためた金で、やっとの思いでお前に会いに来てたのかもしれないぜ」
「………」
「ねねのカレーは、いつでも食える。でも、客との時間はその時しかないと俺は思うけどな」
司馬昭がカレーを食べる手をとめ、「…そうかもしれないな」と小さく言った。
そう語る孫市の姿は、およそいつもの態度とは想像がつかないくらいかっこいい。
伊智子は素直に感動し、孫市に声をかける。
「孫市さんって…いつもふざけているだけじゃないんですね」
「伊智子…俺はいつだって、真剣だぜ」
「ああ、そうだろうな。あんたの「真剣」な態度に業を煮やした客が思いっきりビンタしてるのもよく見るぜ」
「え。」
伊智子のあごをすくい、謎のキメ顔をしてきた孫市に司馬昭の冷ややかな声が容赦なく突っ込んだ。
そ、そうなの!?と、伊智子は目を丸くして孫市を見たが、当の本人は
「さて!そろそろ次の予約客が来るころだ」
あー忙しい忙しい、なんて言ってそそくさと休憩室を出て行ってしまった。
孫市が消えた方向と司馬昭とを交互に見ていると、カレーを食べるのを再開した司馬昭がまた1つ「めんどくせ」と呟いていた。
ちなみに、伊智子が受付スペースに戻ろうとしたとき丁度やってきた凌統が
「俺のお得意様を誘惑するなんて、伊智子ちゃんもやるね」
なんて冗談を言っていた。ワンちゃんはもう勘弁してくれー
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