ビターチョコレート

なんだか今日はたくさん人に会うなぁ。


「あれ、徐庶さん。こんばんは」
「…ああ、伊智子。こんばんは…ええと、もう遅い時間だけど。何かあったのかい?」
「受付に櫛を忘れてしまって。取りに戻ってたんです」



無事に櫛を見つけ、さっさと部屋に戻ろうと階段へ向かったところで鉢会った徐庶は相変わらずくしゃくしゃの髪の毛と疲れた顔をして、とぼとぼと階段を降りてきていた。
徐庶も先ほど会った司馬師と同じくこのクリニックで働く医師だ。
すらりとした長身と、ちょっと内向的な性格が大人の女性にとてもウケがいい…らしい。


「徐庶さんこそどうしたんですか、こんな時間に…徐庶さんも、コンビニですか?」
「…あー…外出するのは合ってるけど、違う用事だ。俺に会う前に…誰かと会ったのかい?」
「玄関のほうで、コンビニ帰りの司馬師さんと」

チョコをもらいました。と、もらったチョコレートをポッケから出した。

「…へえ。司馬師殿にチョコレートをもらったんだね。…すまない、俺はあいにく何も…」
「徐庶さん、私そんな子供じゃないです…」

食べ物をもらうのは嬉しいけど、ないからゴメンと言われる程ではない。
ぷうと頬を膨らませてジトリと睨んだ。
徐庶からしてみればそのような仕草がいちいち子供くさいと思うのだが、伊智子本人には言えるはずもなく、後頭部をぽりぽりと掻いて「…す、すまない」と言った。

そうは言ったものの特に怒ってはいなかった伊智子は、司馬師からもらったチョコレートの包みを開けて、一つ一つ紙に包まれたそれを何個か手の中に包み込む。
ギュッと握ったこぶしを、頭を傾げて不思議そうな顔をしてる徐庶の眼前に差し出す。

「…な、なんだい?」

殴られるのかと思って徐庶は思わず一歩下がった。

「いただきものですが、徐庶さんにもおすそわけです」

手を出してください。と伊智子に言われ、徐庶は素直に両手を器の形にして差し出す。
ぱらぱらと落とされた小さなチョコレートたちはなにごともなく徐庶の手の中へ吸い込まれていった。

「ビターチョコレートみたいです。あ…苦手だったらすみません」
「…いや、少し食べるならチョコレートは好きだよ。ありがとう」

あげてから不安がる伊智子にフッと笑って、徐庶は一粒だけ手のひらに残し、残りをポケットに詰め込んだ。
チョコレートは苦手ではないと知った伊智子は安心からか、だんだん重たくなるまぶたに睡魔の限界を感じた。

「…あ、引き止めちゃってすみません…私そろそろ行きますね」
「ああ。…チョコレートありがとう。…おやすみ」
「おやすみなさい…また明日…」

伊智子は一礼して、非常灯がこうこうと光る階段を登っていった。
ああー、眠い!勝手に閉じようとするまぶたを必死で押し上げ、ふらふらした足取りで廊下を歩いていると、たまたま廊下に出てきていた左近と目が合った。

「おや、夜遊びですか?伊智子さん」
「んー…ちがいます…」
「…どうやらそのようですね。今にも寝ちまいそうだ」

左近は面白そうに笑って、送っていきましょうか?と言ってくれたが

「…おやすみなさい、左近さん」
「はい、おやすみなさい。ゆっくり眠るんですよ」

左近の大きな手のひらに頭をなでられてますます睡魔が襲い掛かる。

部屋にたどり着き、白いベッドに倒れこむ。

…今日は、雨でびちゃびちゃになったり、黒服のお仕事を手伝ったり、お客様にわんちゃんといわれたり…なんか色々あってすごく疲れた。
伊智子はもぞもぞとかけ布団を引っ張ると、それにくるまってすやすやと眠りについた。

…とっくの昔にポッケの中のくしの存在を忘れていた伊智子。

布団に包まれてすやすやと眠る伊智子は、明日もしっかり寝癖がついているに違いない。





小さな背中が階段の下から見えなくなった頃、徐庶も静かに歩みを進めた。
ホールを抜け、玄関から屋外へ出る。

まだ季節は暖かい。上着もいらないほどだ。
それでも、深夜に一人で外にいると何故だか少しむなしい気持ちになるのは何故なのか。
昔の自分を思い出すからだろうか…

徐庶はプルプルと頭を振った。

考えすぎるのは自分のよくない癖だ。
目的地へとゆっくり歩み出したとき、ふと手の中にチョコレートが一粒握られたままなのを思い出した。

このまま握っていたら溶けてしまうし、歩きながら食べるのはなんだか後ろめたいけれど、誰かが見てるわけでも、隣に人がいるわけでもないので、まあいいか。

包み紙を開き、チョコレートを口に放り込んだ。


「…甘い」


徐庶はとくに甘いものが好きなわけではないが、苦手なわけでもない。

しかし仕事をしていると否応なしに口にすることを求められることが多いので、そのせいで「どちらかと言えば苦手」にシフトしつつあった。

それでも伊智子から「おすそわけ」と貰ったチョコレートはなんだか美味しそうに見えてしまい、有難く貰ってしまった。
…そういえば、仕事以外で甘いものを口にするのは随分久しぶりかもしれない。


「……甘いなあ」


徐庶はもう一度呟いた。
伊智子も今頃、同じ味を口にしているだろうか。
その口元は微かに笑っているようだった。
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