兄という存在



「政宗に…政宗さん、いる?あ…っと、いますか?」

伊智子はひかえめに政宗の部屋の扉をノックした。

政宗と和解をしてから数日。すっかり仲直りして昔と同じような関係に戻った政宗と伊智子。
以前は顔を合わせるたびに気まずそうにしていたが、今は「伊智子」「政宗にいちゃん」と呼び合う仲に戻った。

しかし、仕事中はさすがにダメだろうと考えた伊智子は、仕事の間だけは「政宗さん」呼びと敬語で対応することにした。
その事情を知らない政宗は急によそよそしくなった態度に傷ついたらしい。(あとあと話を事情を聞くとものすごく安心していた)


今日、伊智子は仕事の関係で政宗の部屋を訪れていた。
中から「入れ」と声がきこえて、伊智子はゆっくり扉をあける。

そこにはソファに座ってくつろいでいる政宗と、政宗と何か話していたらしい凌統が立っていた。

「あ、伊智子ちゃんじゃん。おはよ」
「凌統さん、おはようございます」

凌統がこちらに気づき、手をひらひら振ってきたので頭を少し下げる。
部屋の奥に座っている政宗はいつもどおりだった。

「えっと…政宗さんの今日の予約の話なんですけど…」
「あ、俺は政宗とシフトの話をしていただけだからいいよ」
「よい、申せ」

「はい。えと…前もって連絡しているとおり本日は3組の予約がはいっているのですが、そのうち21時からのご予約のお客様が30分の延長を希望されてるんですけど…いけそうですか?」
「問題ない。ただし30分以上の延長は無理だと伝えよ」
「はい、わかりました…」

伊智子と政宗のやり取りを興味深そうに見つめていた凌統は、二人の会話が終わると口を開いた。


「政宗も最近出勤多くなったよな。ねねさんが喜んでたよ」


ちょうど伊智子と和解したあたりから、政宗は出勤回数を増やしていた。
以前は一週間に2回出れば良いほうだったのだが、今は少なくても週3回は出勤しているとHPにも記載されている。

これに喜んだのは社長夫人のねねを筆頭に、政宗をひいきにしている常連の女性客達だった。

オープンスタッフには及ばないとは言えそこそこ初期から勤務している政宗はその分固定客も多い。
今までは少ない出勤シフトを固定客の中で奪い合うようにしていたが、シフトが増えた今その奪い合いも大分緩和している。新規客が入り込む余地もあるくらいだった。

「伊智子ちゃんともあんなに険悪な雰囲気だったのにな。何があったのか知らないけど、仲直りしたみたいでよかったよ」
「あの時は…すみませんでした」
「伊智子、あまり凌統に近づくな」

「ちょ、政宗にいちゃん…」

伊智子はハッとして口を押さえた。
我慢してたはずなのに、政宗と凌統がまた喧嘩してしまいそうになってつい声が出てしまった。

愛称を聞いた凌統はニヤッと笑って伊智子に詰め寄る。

「え、やっぱ二人ってそういう関係だったんだ?」
「そういう関係って…ち、違…」
伊智子もはっきり言えばいいのに、戸惑いのせいで言いよどむ。

「兄妹じゃないのににいちゃんって呼ばせてんの?へえ…」
「凌統!ただの昔なじみの名残じゃ」
下世話な話に持っていこうとした凌統を政宗が一喝した。

「やだやだ、声がでかい男って。伊智子ちゃん、あんな男より俺のことにいちゃんって呼んでみてよ」
「え」
「…凌統兄ちゃん。」
「え…う…」

「…凌統。いい加減にせよ。伊智子が困っておる」

政宗が静かにそういうと、伊智子の顔を覗きこんでいた凌統は両手を挙げてパッと伊智子から離れた。

「ごめんごめん伊智子ちゃん。困らせるつもりはなかったんだけど…あらら」

眉を八の字にして困ってしまった伊智子は、落ち込んだ様子で口を開いた。

「にいちゃんって言ってしまうのは…昔からのくせなんです。仕事中は口に出さないようにしてるんだけど、うまくいかなくて…」

真面目に仕事をしようとしているだけなのに、どうもうまくいかない。

「そうだなあ…確かに、客の前でその呼び方すんのはよくないかもしれないけど」

気づけば凌統もその場に座り込んで、うーんと腕を組んで考え込んでいる。
伊智子もその隣にちょこんと体育すわりをした。

「俺たち従業員の前では、別に気にする必要ないんじゃないのかい?」

「え…でも…」

伊智子はちらっと政宗のほうを向いた。

「わしは気にしておらぬ、伊智子の好きなように呼ぶと良い」
「とか言って、いっつもにいちゃん♪って呼ばれたいくせにさ」
政宗は凌統の発言を無視した。

「うーん…でも、私、自分がそんなに器用にできるとは思えません」

一人で黙って悩んでいた伊智子がそう言う。
それについては政宗も凌統も「そんなことはない」とは言えなかった。
黙った二人に対して伊智子は向き直り、意を決したように言った。


「やっぱり私はちゃんとけじめつけます!これからは気をつけます!それでは!」


伊智子は勝手に決意して、勢い良く部屋を出て行った。バタバタと足音が響き、こうるさいやつに見つかったらうるさいだろうなと部屋に残った二人は思った。

「…政宗、そういえば伊智子ちゃんが客の間でワンちゃんって呼ばれてるって知ってるかい?」
「…は?なんじゃそれは」

「まあまあ、見てみなよ。これ」

伊智子が去り、再び二人きりに戻った凌統はポケットからスマホを取り出してとある掲示板を開いた。
真っ黒な背景に白い文字がチカチカするそれはいわゆる「裏掲示板」というやつで、このクリニックに関する話題や噂が飛び交っていた。
掲示板の中には医師はもちろん数人の黒服のスレッドがたてられており、クリニックに通う女性たちが好き勝手に色々なことを書き込んで交流しているようだった。

「おぬし…そのようなものを見ておるのか」
「こないだ客が教えてくれたんだ。ただの暇つぶしだよ」
「くだらん」

政宗はふんと鼻を鳴らした。

「ほらここ、読んでみな」

目の前にかかげられたスマホ。画面には小さな文字で「新人受付板」と書かれている。
政宗はしぶしぶといった様子でスマホを手にとり、目を細めて読み始めた。


「…なに?『最近はいった受付の子がかわいい、たどたどしい手つきで対応してくれて萌える。』…『でも子供すぎない?』…『顔はフツメンなのにあの中にいたら逆に良い。』…おい、これを書いた奴は誰じゃ!伊智子の顔を馬鹿にしておるのか!!」


「ただの書き込みにいちいち怒らないでよ。ほら、こことか面白いよ」
「『後ろでコジュさんに監視されてるのが居残り中の小学生みたい』…コジュさんというのは小十郎のことか」
「小学生だって!ハハハ いてっ」

政宗は凌統の頭を軽くはたき、画面をスクロールした。

「『この間ワンちゃんの顔をのぞきこんだら目が真っ黒でびっくりした。黒い豆柴っぽい。』だと…おい、この女伊智子になれなれしくしておるぞ。小十郎に伝えねば」
「だーからいちいち反応しちゃダメだっつうの、それに誰だかわかんないのに伝えたって小十郎さんだって困るだろ。まあでも、豆柴っていうのは当たってるよね」

政宗からスマホを取り戻した凌統はそれをポケットにしまいながら上機嫌に言った。

「伊智子ちゃん、ほんと目が真っ黒だよね。髪の毛も真っ黒で短くて…でも猫っ毛でやわらかいし」

伊智子の容姿を思い出しながら言う凌統を、政宗はじとりと睨んだ。

「おぬし…伊智子に手を出したらわかっておるな」
「あのさ、いくら俺でも同僚の妹同然の子に手出すほど節操ない男じゃないから」

凌統が呆れたように言う。

「そのようなことはわかっておる!だが…やはりこの男ばかりの職場に伊智子がいることが気に入らん」
「あんた…兄っていうか、父親みたいだな。同じ職場で出会えたってこと自体奇跡だと思うけどね」

凌統は「よっこらせっと」と言って立ち上がった。

「…よかったじゃん、仲直りできてさ」
「ふん、相変わらず何にでも口をはさむ男じゃな」
「あんたが何も言わなすぎなのがダメなの。じゃーね」

凌統はひらひらと手を振って政宗の部屋から出ていった。




部屋を後にし、廊下をぼんやりと歩きながら凌統はあの時のことを思い出していた。

「…変わったよなあ、政宗も」

政宗と伊智子がここで再会したとき、二人の異様な雰囲気を感じ取り仲裁にはいった凌統。

政宗の態度は確かに気に入らなかったが、二人の関係の修復も心配していた。

それから二人の間に何があったのか知らないが、いつの間にか政宗と伊智子の二人は家族のような距離感になっていてとても驚いた。
が、同時にすごく安心した。

政宗の部屋を後にしながら、もう伊智子の悲しい顔は見ないで済むんだなと思うと凌統は少し安心した。
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