本がお好き
クリニックMOは、看板を出していない。営業時間の表記もしてない。
もちろん届出はきちんとしているが、何も知らない人間にはそこが知られざる癒しの空間ということは全くわからない。

高くそびえたつビルの一階部分。
通りに面した一面は、自動ドアの部分を除いた全てが大きな大きな1枚ガラスで出来ていて、指紋ひとつない立派なそれは社長夫妻の自慢でもあった。
外から中が丸見え、と思うかもしれないが、うまく配置されたインテリアのおかげでそのようなことはない。
むしろ、うまく中が隠されているおかげでますます「あの綺麗なビルは、一体なんなんだろう」と、街行く人々の興味を誘っていた。


今日は天気予報どうり、天候は快晴。
時刻は昼前、伊智子は布巾とバケツを片手に玄関の外に立っていた。


「よ〜し、窓拭きするぞ!」


どうやら、その自慢のガラスを拭くようだ。

なぜそのようなことをするのかと言うと、先日までの雨で自慢のガラスは雨のあとで白く汚れてしまっていたからである。

定期的にビル全体の窓を拭いてくれる業者は来るのだが、なにやら依頼が立て込んでいるらしく今呼んでもすぐには来てもらえないらしい。
そのため、高いところは届かないが、せめて自分の手が届く部分だけでも綺麗にしようと思ったのだ。
最初は脚立を借りて徹底的にやろうと思ったが、あぶないから絶対にするなとその場にいた全員に言われてしまったので仕方なくできる部分だけ拭くことにした。

伊智子は腕まくりをし、張り切ってガラスを拭いていった。

それから数十分経った頃だろうか。
しばらくして、あらかた拭き終わったところで後ろから急に声をかけられる。


「…すみません、あなたはここの方でしょうか?」


女性にしては低いような、男性にしては高いような声が聞こえて伊智子は振り向く。
そこには一人の男性(…だと思う、服装からして)が立っていた。橙色の、肩まである猫っ毛が色白の肌に良く似合っている。どことなく女性的で美しく、優しそうな顔立ちをしていた。

「はい、そうですけれど。何か御用ですか?」

伊智子が腕まくりした袖を戻しながら頷くと、その男性は安心したように微笑んだ。その顔が、誰かに似ているようで…うまく思い出せない。誰だっただろう?

「ああ、良かった。私はここを探していたのです」

口調も柔らかく、とても丁寧な言葉遣いだ。秀吉社長のお客さまだろうか?それにしては荷物が多いような…。
なんといっても、一週間分は入りそうな大きな旅行キャリーを携えている。…もしかして、旅行客だろうか?
いや、だとしたらここは一体いつから観光地になったのだろうか…。

伊智子のそんな視線に気付いたらしい。男性は姿勢よく頭を下げて、言った。


「申し遅れました。私は小早川隆景。本日よりこちらでお世話になります」


隆景と呼んでください。と女性顔負けの笑顔を浮かべてそう言った。






ところ変わってここは社長室。

社長の秀吉、夫人のねね。それに、従業員のまとめ役である三成も揃っている。
その前に隆景と、なぜか伊智子も並んで皆ソファに座っていた。

三成の煎れてくれたお茶がほこほこと湯気をたてている。
三成が煎れるお茶は不思議なくらい美味しくて、あんまりしょっちゅう飲めない(というかお茶を煎れてくれない)ので、伊智子はこっそり喜んでいた。


「よう来たのう隆景!お前さんのように頭の良い男が来てくれると本当に助かるで!」

「三成殿からずっとお声をかけて頂いておりましたが、遠方に住んでいた上に学生の身でしたのでなかなか良いお返事ができず…今年大学を卒業いたしましたので。ようやくこちらに参ることができました」
大変お待たせしてしまい、申し訳ありません。と言う隆景。

秀吉と隆景の言葉から察するに、隆景はずっと三成からスカウトを受けていたらしい。
今までは地元、広島の大学に在学しており、卒業をきっかけに上京してきたようだった。
三成がそこまで欲しがっていたとは…もしかしたら隆景はとんでもない人物なのかもしれない。

「急がせていたわけではない。お前の都合が合う時があればと思っていたのだが…随分早く来れたのだな。逆に聞くが…良いのか?」

「ええ。学び舎で学べることはもう十分学ばせて頂いたので。特に付きたい職種もありませんでしたし…それに、父のこともありますしね」

隆景の言葉にパッと表情を明るくさせたのはねね。家族の話題になると途端に元気になる。

「そうだ、お父上がいるんだったね。今日は生憎いないんだけど…あとで会わせてあげるからね!」

「ねね殿。お気遣いありがとうございます」

どうやら隆景の父は近くにいるらしい。隆景の父となると、相当なイケおじに違いないだろうな…とのんきに考えていると、目の前から厳しい声が降ってくる。

「おい、伊智子。ガラス拭きをすると張り切っていたが、きちんとやれたのか?」

うわ、なんかこっちきた。伊智子はギクッとしつつ言葉を返す。

「で、できましたよっ。届くところだけですけど」
「んもう、伊智子ったらそんなことしなくてもいいのに」
女の子なんだから危ないことしないの。と言う口ぶりは母親のようだ。

「でも…やっぱりお客様が一番に通る場所だから、綺麗なほうがいいと思って…」

「遠くからしばらく見させて頂いておりましたが、伊智子殿は一生懸命ガラスを拭いておりましたよ」

隣に座る隆景が急にそんなことを言った。
まさかガラス拭きの光景を見られていたとは知らず、伊智子は盛大に驚いた。

「えっ!見ていたんですか!?」

「はい…あまりに一生懸命でしたので、声をかけるのをためらってしまい…ひと段落ついた辺りを見計らって、声をかけたのです」

そんなこと気にしないで、さっさと声をかけてくれればいいのに…。むしろ自分は入り口をふさいで、邪魔だったんじゃないか。
隆景の気遣いにたじたじになっていると、秀吉社長は満足そうに笑った。

「もう仲良くなったようで安心したわ!そうじゃ伊智子、掃除はもう一段落ついたんじゃろ?隆景を部屋に案内してくれんか?4階の部屋をひとつ空けとるんじゃが」

「あっハイ、わかりました!4階ですね」
「伊智子殿。助かります」
「いいえ!エレベーターこちらです。それでは失礼します」

秀吉社長にそう言われ、伊智子は元気よく立ち上がった。それにならうように隆景も荷物を手にソファから立ち上がる。
挨拶をして社長室を出ると、下の階に向かうためエレベーターに乗り込んだ。



しばらくして、目的地にたどり着く。
4階はここに住み込んでいる医師のほとんどの部屋があるフロア。最近使っていない部屋を綺麗に片付けたらしい。
その一室の扉を開ける。

「ここですね、どうぞ、隆景さん。あ、荷物いれますよ」
「ありがとうございます。ああ、キャリーは重いですから、無理して持ち上げないでよいですよ」
「え…?わっ、本当に重い!」

隆景がそのままで良いと言うので、お言葉に甘えてキャリーを下ろす。
一瞬持ち上げただけなのに腕がじんじんする。これ、ここまでひきずって歩くのも一苦労だったんじゃ…。

しかも、ビルに入ってからは一度もキャリーをひきずっていない。床が汚れるからといってずっと持ち手を持っていたのだ。
失礼なことを言うようだが、隆景は正直、見た目で言うとそんなに力があるように思えない。
それなのにこんな重たいキャリーを持ってビルの中を歩き回ったなんて、実は脱いだらムキムキだったりしたらどうしよう。

そんなことを思っていると、隆景は片手でヒョイとキャリーを持ち上げて部屋の中に運んでしまった。
その光景にも伊智子は謎のショックを受けた。

「これは、中身はほとんど本なのです」
「本?」
「手元に置きたいものだけを選んだつもりなのが、こんな量になってしまいまして。

身の回りのものは、少ししか入りませんでした。と言って開いたキャリーケースの中身は言った通り本がぎっしり詰まっていた。
なんかもう文字通りすし詰め状態で、キャリーにこんなに本が詰め込まれているのを伊智子は初めて見た。
他のものは宅配で送ってもらったという。身の回り品より本を優先して持ってくるなんて、そうとう本が大好きなんだなあと伊智子は思った。



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