宴の裏で





「私は稲を愛してしまった。だから、もう稲以外の女性を癒すことなどできない……か」



「熱烈な愛の告白ですね」

伊智子の返事に、三成はフンと鼻を鳴らした。

「…奴にしか言えん台詞だな」
「信之さんが言うと、サマになりますもんね」

伊智子は三成の前にお茶をおき、正面に座る。
先ほどの言葉は、自分はどうしたいのか問われたとき、信之の口からでた言葉だった。
復唱するように同じ言葉を呟いた三成は、どこか遠くを見つめていた。



「……明日から、さみしくなりますね」



徳川は明日にでもうちに来てほしいと言った。信之はそれに頷いた。

「………」

伊智子の言葉に三成は返事をしない。黙ったまま、湯のみに手を伸ばした。


信之は徳川を選んだ。

あの場にいた人間は皆、心のどこかで「そう」なるんじゃないかと思っていた。
しかしどうしても「ハイそうですか」と言って信之を渡したくないとも思っていた。

だが、あの時信之がハッキリと口にした言葉。
それを聞けば、誰も…何も言えなくなってしまったのだ。


信之は愛情のこもった目で稲を優しく見つめ、稲はぽろぽろと涙をこぼしながら何度も頷いていた。


家康は若い2人の様子を微笑ましそうに見つめ、秀吉とねねも最初は困った顔をしていたが、やがて家康と同じように2人を見守っていた。
伊智子は感動的な稲の涙にもらい泣きし、ずびずびと鼻水をすすっているところを三成に白い目で見られた。

忠勝がただ一人、複雑な表情で大事な一人娘の涙をじっと見つめていた。





信之の退職は、その日の夕方、緊急で従業員に召集をかけ、その場で伝えられた。

実力も人気も、人望もあった信之。そんな人間が辞めるだなんて。しかも、明日には部屋も出て行くという。
いきなりのことに開いた口がふさがらない面々が多い中、信之が今回のことを改めて皆にわび、そして大切にしたい女性がいると打ち明けると、戸惑いながらも門出を祝う光景が見受けられた。

そして今。
営業が終了し、夜通しで送別会の真っ只中だ。
明日は土曜日。クリニックMOの定休日は日曜日と祝日、そして隔週の土曜日なのだが、明日はちょうどその隔週でくる休日の土曜日にあたる。
住み込みの者たちは勿論、アルバイト組も、参加できる者は皆送別会に参加しているようだった。

ホールから楽しそうな声、食器がぶつかる音、ひんぱんにグラスを乾杯する音がきこえる。
愉快そうな笑い声が耐えない。


そんな喧騒からそっと抜け出した三成と伊智子は、しんと静かな休憩室でお茶を飲んでいた。
三成はほろ酔いなのか、白い肌がうっすらと赤くなっている。

お茶を一口のみ、安心したように息を吐いた。

「…信之の固定客は多いからな。…ああ、明日が定休日でよかった。ホームページを編集しないと」

「そうではなくて、私達がって意味です!」
それに、ホームページの編集はもう小十郎さんがやってました。と言えば、三成は浮かしかけた腰を再びソファにうずめた。

「…そうだな。………幸村も、数日は仕事にならんのではないか」

「あ…そっか、幸村さん…」

幸村は信之の弟であり、誰よりも信之のことを心配していた。
信之の様子からして、幸村にさえも自分の本心は伝えていなかったのだろう。
いきなり、ずっと一緒にいた実の兄が明日退職するというのだ。
驚くのも無理はないだろう。

三成はゆっくりとした口調で語った。


「ここは…従業員のほとんどが寝食を共にしているだろう」



「明日、朝起きて…いつも見ているはずの顔が一人いないだけで、一気に人数が減った気分になる」




「俺は…俺たちは何度も経験してきたが。いつまで経っても…慣れぬな」


そう言って三成はうなだれた。

先日、終礼の場で信之と強い口調で言い合いをしていた三成。
信之の立場を重んじてこその発言だった。信之もそれはきっと理解していただろう。
だが、結果、信之はここを去ることになってしまった。

三成の心境は、今のこの雰囲気を見れば、想像するのはたやすかった。

うなだれた三成の背中は、なんだか見慣れなくてムズムズする。
伊智子は腕をのばし、三成の肩にポンと手を乗せた。

「…石田さん、私は今のところお嫁にいく予定ありませんから、安心してくださいね。いつかはいなくなるかもしれないけど、さみしいからって泣かないでくださいね」

三成は瞬時に顔をあげ、伊智子の頭を思いっきり扇子ではたいた。

「馬鹿者っ。お前のような下っ端雑用、いてもいなくても変わらん。というより、もらってくれる男がいるかどうかも疑わしい」

「なっ……!ひ、ひどい!暴力!セクハラです!!」

「やかましい!伊智子、喉がかわいた、茶をもう一杯よこせ」

「石田さんこそいきなり明日『俺、駆け落ちします、後のことは頼んだ』とか言っていなくならないでくださいよっ!」
「お前は本当に馬鹿か?というよりも、俺がいなくなったらそんなに困るのか」
「困りますよ、そりゃあ…」

伊智子はソファから立ち上がり、やかんに水をいれてガスコンロにセットした。

「私、まだまだ半人前ですし。石田さんがいないと不安でいっぱいですから」

だからいなくならないでくださいね。と伊智子が続けると、三成は意外そうな顔を浮かべていた。


「………………てっきり俺は、さっさといなくなれくらい思われていると思っていたが。…違ったのか」


「じ、自覚あったんですか!?そう思ってるんなら、少しはものの言い方とか考えてくださいよ」

「聞こえんな。それに、俺の態度をどうにかしたいなら、最低限仕事ができてからにしろ。半人前などと…、自分を過大評価しすぎだ」

「ひ、ひいいん……!」

ひどい!あんまりです!伊智子はそう言って、三成の手から空の湯飲みを奪った。
ぷりぷりしながらお茶を準備する後姿を眺めながら、三成はフッと笑った。

三成は、伊智子が言ったように、この先しばらく――できることならいつまでも。この小さな部下が、ずっとここにいればいいのに。心の隅でそんなことを思った。





明日、信之は荷物をまとめてビルをでていく。同時に、クリニックMOを退職する。


かくして、クリニックMOは徳川という強大な後ろ盾を手にしたと同時に、真田信之という医師を手放すことになったのだった。


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