別れとこれから




朝。
通勤中の会社員がちらほらと道をゆくなか、信之は一人、荷物を抱えてビルの前に立っていた。

ホールには酒で酔いつぶれた従業員達が折り重なるように爆睡している。
その中をそっと抜け出して、前から準備していた荷物を手に、信之は一人でビルを後にするつもりであった。


「…ここには随分長い間、世話になったな」

父の薦めで幸村とともにこの会社に入った。
良い友人がたくさんできたし、貴重な体験もたくさんできた。
入った直後は、このようなことになるとは思わなかったが、こういう形で去るのも悪くはないなと思った。

社長と社長婦人には声をかけた。
同僚の皆には昨夜、たくさん言葉をかけてもらった。見送りの言葉ももらった。
中には泣いている人間もいた。行かないでくれと言ってくれる者も居た。
幸村も背中を押してくれた。あれとは昔からずっと一緒だったが…とうとう離れるときが来たようだ。


「私は良い仲間を得たものだ」


信之には、それだけで十分だった。
しめっぽく送られるのは苦手だったので、皆が寝ているこの隙に出て行こう。
おわかれだ。そう思って背中を向ける。


「の、信之さんっ!」


すると、後ろから自分の名を呼ぶ声が聞こえてハッと振り返る。
そこには、今しがた起きましたと言わんばかりの風貌の伊智子が立っていた。

「伊智子」
「信之さんっ…こっそり、いなくなるなんてっ、水臭い、ですっ」

部屋の窓をぼんやり見ていたら、信之の姿を見つけて走って来たらしい。肩を上下に揺らし、息も荒い。
必死な顔で言うものだから、信之はついつい笑ってしまった。


「なんだ、伊智子。走ってきたのか」
「だって!信之さんが…一人出て行こうとしたから…」
「見送りは昨日十分受けたからな。今生の別れでもあるまいし」

「でも、それでも……さみしいです。だって…」


伊智子はそこでうっと言葉をつまらせる。
三成が言っていたことを今実感する。
信之は今日からいなくなる。今までずっと一緒だったのに。いなくなってしまうのだ。

仕方ないことだとしても。背中を押してやらなければいけないことだとしても。

それでも、さみしいものはさみしい。


「い、今まで、ずっと一緒だったんですよ。それなのに…」

「そうだな、すまない。私が悪かった」


信之は伊智子のほうに歩み寄り、そっと頭をなでてくれた。ぴょんと立った寝癖をなでつけられる。
その手つきが優しくて、ついぽろっと涙がこぼれる。
こうやって頭をなでてくれるのも今日が最後なのだ。


「…信之さん、また会いにきてくれる?」
「ああ、来るとも」
「…私たちのこと、忘れないよね?」
「ああ、忘れるわけがないだろう」
「…稲さんと……結婚するときは教えてくださいね」
「……そう、だな。稲が結婚しても良いと言ってくれたらな。その時は皆に招待状を送るから」

「絶対ですよ!ぜったい!ぜったい送ってくださいよ!」

「はは、わかった、わかった。……伊智子、達者でな」


「はい。……信之さんも。……がんばって」


伊智子は涙をぐいっと拭いて、信之の目をじっと見た。
信之は大きく頷いて、それから笑って、今度こそ背を向けて歩き出した。

振り返らずに歩く背中はとても大きくて、かっこよくて、やっぱり少しさみしいな。と思った。




信之の姿が見えなくなっても、伊智子はなんだかビルの中に入る気になれなくて、ぼんやりと空をながめていた。
徳川グループの会社っていっぱいあるけど、信之さんはどこにいくんだろうとか。

そんなことを思っていると、ふいに後ろから声をかけられる。

「伊智子殿」

「幸村さん!信之さん、もう行っちゃいました…」
「だと思いました。兄上らしい」

自動ドアを抜けて、幸村がこちらへ歩いてくる。
太陽はいつのまにか高い位置に上っていて、人通りもにぎやかになってきた。

行き交う人々を並んで眺めていると、幸村が口を開いた。


「伊智子殿。いつか…休憩室で話したことを覚えておりますか?」

伊智子はちらりと幸村のほうを見た。
休憩室で話したこと、とは、恋人がああだこうだとかいう話だ。もちろん覚えている。

「はい。覚えていますよ」
「兄上は」

幸村はただまっすぐを向いて言った。


「兄上は、今がその時だったのですね」


「…そうですね」

自分達は仕事や自分自身のことで精一杯で、恋人だとかをつくる余裕もないし、そもそもその気もない
いつか時期がくれば、そういう人と結ばれたい。
そんな話をした上で、幸村は、信之は今がそういうタイミングだったのだろう、と言った。


「寂しくなりますが…弟として、これ程までに嬉しいことはございません」

「…そうですね」

幸村が伊智子のほうを向いて、ニコッとさわやかに笑った。
実の兄の門出だ。さみしさもあるだろうけど、幸村は嬉しい気持ちのほうが大きいようだ。
その笑顔につられるように、伊智子も微笑んだ。



「兄上を見て、なんだか…恋愛とか、結婚とかも良いものなのだなあと思うようになりました」

「え?へえ……幸村さんが結婚したら、すっごく良い旦那さんになりそうです」

意外な言葉にそう返すと、幸村は照れたように頭のうしろをかいた。

「そ、そうですか?…そうだと良いのですが」

「絶対そうですよ。幸村さんと結婚するひとは絶対ぜーったい幸せ者です」



「なんだか恥ずかしいですね。……では伊智子殿は、私と結婚してくださいますか?」



「えっ!?」


まさかの言葉に伊智子は目を見開いて驚いた。


「冗談です」

当の本人はケロっとした顔でそう言うものだから、意地の悪い冗談を言われた、と、伊智子は幸村の肩をどついた。
幸村がそんな冗談を言うなんて…、一体誰から教わったのか疑ってしまう。

「ち、ちょっと!!い、息が止まったんですけど!!あービックリした…やめましょう、そういう誰も幸せにならない冗談は…」

「ははは。申し訳ございません」

「うっ…」

一人わたわたしている伊智子と、そんな伊智子を見て笑う幸村。
からかわれたことは腹立たしいけれど、笑った顔がさきほどの信之を思い出して、喉まででかかった文句はぐっと飲み込んだ。


「さあ、伊智子殿。そろそろ戻りましょう」
「そーですね。今日はお休みだし…二度寝でもしようかな…」
「はは、良いですね。私は、寝ている皆さんを起こそうと思います」
「え……じゃあ、私も手伝います…」

「助かります、伊智子殿。…昼間、予定がなければどこか遊びにいきませんか?気晴らしに」

「えっ!やった、行きたいです!」


2人、他愛もない言葉を交わしながらビルへ向かう。
今日も1日が始まる。なんでもない1日が。

信之も徳川で過ごす毎日が日常になってゆくのだろう。


いつかまた、笑顔で合える日が来ますように。


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