不可解


ある研究室の一室。既に太陽は身を潜めている。研究室の勤務時間は等の昔に過ぎていたため、部屋の唯一の明りと言えば、外から漏れる月明かりと機械の画面から発せられる光だけだった。
其処で小さな呻き声を発していたのは今年で丁度10歳になる子供。顔は俯き表情は読み取れないが、その顔の角度のせいで流れた銀色の髪は溜息がでそうなほどに美しかった。しかし、髪と同じくらいに美しいであろうその真っ白な肌には痛々しいまでの痕ばかりが目立っていた。よく見ると注射痕などの医療的なモノから打撲などの鬱血したモノまで様々だった。察するにあまりある惨状である。さらに言えば、身体は戦く程のチューブが繋がれていた。そのチューブの先の機器からは、ぴっぴっと規則正しく鳴る音が気味悪く響いている。何かのデータが蓄積されていた。
……その子供は、まごうことなき実験台だった。

そのような部屋に扉の開く音が響く。静かな音。まるで忍ぶようなその音を聞くと、緩慢にその子供は顔を上げた。そして、伏せられた顔から見えたのは、月光で揺らめく桃色の大きな瞳。その目は、入ってきた人物を捉えるとゆっくりと細められる。そして「……こんばんは、」とその子供は言った。
開いた扉の前に立っていたのは、パーマの掛った黒髪をもち、眠そうな瞳を讃えた男性であった。すらりとした長身が目を引く。きょろりと辺りを見渡し、男の方を見ていない何匹かの監視でんでん虫を見付ければ、一瞬で凍らせてしまった。その男性はゆっくりと、子供のいる方に近づいてきた。
そして一度だけ眉を顰め悲しそうな瞳をした後、ちょこんと子供の前にしゃがんだ。

「…君が、 シャークちゃん?」

そう男性が問う。シャークと呼ばれた少女は悲しそうな顔をした相手から同情されていることを感じ、不快感は出さずとも淡々とした表情は崩さずに見つめ返す。
彼女に同情など、不必要だった。その子どもは同情よりも、謝罪が欲しかった。同情よりも、権利が欲しかった。同情よりも、兄と居られる未来が欲しかった。
しかし、それらを口にできるほど、シャークは命知らずではなかった。もともと彼女には欲を素直に提示できる能力は備わっていなかったが、そもそも提示しようとも思ってはいなかった。
だから、そのなにも浮かべていなかった表情を崩し、表情に笑みを乗せた。

「ええ。……私が、ツーシャオシャークです。貴方は?」
「……俺はクザン。よろしくね」

彼女の微笑みに一瞬たじろいだのは、クザンだった。完璧な微笑みだった。笑みを浮かべたという認識のみ持たせる、そんな。宜しくと口に出してはいたが、クザンは、警戒を強めていた。彼女には何かが、あった。己でも知らされていない何か、が。
「……夜分遅くにどのような、ご用件ですか?」
物腰は柔らかく、しかし警戒心が見える問いかけに、クザンは沈黙する。なんと答えればいいのかは躊躇われた。単に言ってしまえば只の興味だった。
5年前の惨状を経験した彼女への、純粋な興味。地下実験室で、機械に繋がれたままの彼女の持てる力への興味。挙げたら切りがなかったものの、それを知るためには、彼女の置かれている現状ではいけないことも事実だった。

心配そうな瞳でシャークは男性を見ていた。確かに案じていた。警戒を抱きながらも、男性の紡ぐ様子をしっかりと見据えていた。優しさが、隠されていた。
その顔を眺め、男性は問う。


「……シャークちゃんは……ここから出たい?」

その問いに今度はシャークが沈黙した。
その答えを素直に口にして良いのかは躊躇われた。出たいと言えば勿論出たかった。飛び出して、元の島へ戻りたかった。幸せな優しい日々に戻りたかった。しかしそれは叶わないというのは、分かっていた。もうあの島はどこにも存在し得ないし、あの日々はもう何処にもない。けれど、もしも外に出れば、彼に会えるのではないかと。双子の兄に会えるのではないかと。絶望しながらも一縷の希望を抱いていたのも確かだった。
そして暫く経った後、ぽつりとシャークは呟く。
俯いたままなので酷く聞き取りにくかったが、確かに言った。

「……できることなら……」

彼女の呟きを聞いたクザンはゆったりと目を細めた。興味を解消できる、と思った。
彼女の意志がなければ、出すことは叶わない。政府が、あるいは海軍が、無条件に彼女を手放す訳がない。出すためには、それなりの見返りが必要であり、少女にはそれをしなければならない義務がある。そうするためにも彼女の意思は欠かせなかったのだ。
それに、此処にいたとしても彼女の処遇は悪くなる一方なのは目に見えていた。痛々しいまでの肌がそれを示している。だらけきった正義と言えども、幼い女子どもにこの仕打ちを許容できるほど、クザンは情緒と感情を捨てたわけではなかった。

「軍に入っても?」と問いかける。
シャークは一瞬目を見開いたが、ゆっくりと首を縦に振った。
「何をしたとしても」
その言葉は確かな意思を持って告げられた。瞳には決意があった。理由があった。しかし、悲しそうに笑った。

「分かっています。私は脅威だと。私は害だと。同時に研究対象でもあることも。」

それにどうこう言うつもりはシャークにはなかった。様々な思惑が絡み合っていることを知っているからだ。気づいているからだ。しかし、その理不尽さを嘆きもする。彼女はまだ10年しか生きていない子どもなのだから。達観は、時に甘さを生むことは知っていても、そうすることでしか心を納得させることができないから。

「でも、どうして、たった一人の家族にさえ会えないのでしょうか。なぜ、私は此処に居て、兄は側に居ないのでしょうか。…」

切実な願いを込めた呟きは、ゆっくりとゆっくりと、クザンの心を動かしていく。
切実な声で紡がれるのは、本当に小さな願いであり、本来ならば当たり前にあるものであった。それなのに、今少女の身にはその願いは叶えられていない。他でもない政府や海軍の思惑によって。クザンにはそれが不憫で堪らない。海軍に身をおくものとして、不適切でない感情であることは重々承知はしていたが。
彼女は暫く俯いていたが、漸く顔をしっかりと上げた。今にも涙が零れそうな瞳とクザンの瞳がかち合う。

「……クザン、さん。私……できることならなんでもします。だから、……どうか私に、希望を与えて下さい」

まるで、縋る様に少女は言った。今までクザンに対して命乞いをしてきた者たちと被って見えたものの、彼女はそれらのどれとも違うと思った。
少し沈黙してから、クザンは諭すように言った。

「入隊する時は、本意ではないことを印象付けられるかい」

ゆったりと笑みを浮かべたクザンの目は、恐ろしいほどに真剣だった。それに同意出来なければ、此処で殺してやろうと言う気持ちさえ見え隠れしていた。苦しむくらいならば。いっそ。その理不尽な優しさは、目の前の少女にのみ注がれる。

「君の兄は海賊として扱われている。君が無理にでも会おうとすれば海軍の信用は地に落ち危険因子として排除される可能性もある。一生外に出ることも出来ない。最悪生きることも困難になるだろう。」

海賊を絶対に許さない派閥が存在する限り。海軍にあだなし、海賊に荷担する者への報復は火を見るより明らかだった。それをクザンは知っていた。例え兄に会いたいという意思だけであっても、それが許される程、この世界は甘いわけではない。

「どうか10年の間我慢して、訓練されてくれないか。元帥から直々に海軍に入れと言われれば、きっと全てが上手くいくだろう」

権力者の許可があれば、研究室から外に出ることは許されるだろう。そうすればそれを利用して海軍に助力し、信頼を勝ち取り。遠征等で兄に一目でも会えるようになるという希望的観測は、そんなうまくいくはずがないと切り捨てるには惜しいものだ。あくまで海軍の支配下での実現にはなってしまうが。
そうするためには、海軍が必要とする力を行使できる実力が伴わなければ、ならない。
責任は、己が取らねばならないだろう。いつかは。
そう思いながらクザンは少女を見つめた。答えを、求めた。

目をぱちくりとさせていた少女は、穏やかに、本当に嬉しそうに、朗らかに、柔らかく微笑んだ。そしてしっかりと頷く。

少女は理解していた。此処に居ても希望はないことを。どんなに危険な状況に晒されたとしても、自分の決意は覆りはしないことを。裏が例えあるものだとしても、乗るしかないことも。

まるで慈悲深い女神のようだと、クザンは思う。本来の少女の笑顔に、胸がずきりと痛んだ。
ぽんと頭を一なでしてから、凍らせていたでんでん虫を解凍する。そして立ち上がり、夜中の来訪者は去っていった。シャークは唯その背を見送った。
















不可解
(と思われないように)(策略をたてよう)
















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