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無知の徳
その口から吐かれる煙は、
「…すまねェ。」
遠慮がちな言葉と一緒に、
細く、
ゆるりと上った。
「土方…さん…?」
私の目に映るこの人は、
隣にいるはずなのに、すごく遠くに感じて。
「難しいんだな、…誰かを想うと。」
"うまく出来やしねェ"
引き連れる煙と一緒に、
私の知らないどこかへ行ってしまいそうで。
「…こんな形になって…すまない。」
儚いのに、
綺麗で。
「…、…ごめんな。」
全てを投げだせそうなほど、
悲しかった。
無常の風
- A part -
あれはまだ八日前。
初夏にしては、
随分と暑い夜だったのを覚えている。
「今からですか?」
『あァ、…無理ならまた』
「だっ大丈夫です!」
もうすぐ今日が終わる時間。
彼から急な連絡が入り、
"これから会えないか"と言われた。
待ち合う場所は、近くの川辺。
どうしたんですか?
何かあったんですか?
声を聞いた時、頭に浮かんだのに。
「すぐに行きます!あと15分ぐらいで!」
『あァ、分かった。来る時に電話しろよ。』
"危ねェから話しながら来い"
会いたい気持ちと、
急ぐ気持ちで、
私は何も聞かずに電話を切った。
「…どう、したんだろ…。」
あまり、いい予感がしなくて。
何を聞かされるのか恐くて。
「…どうしよう、フラれる…とか?」
一人で口にして、
一人で頭を振った。
「早く行かなきゃ。」
電話の向こうで風の音がした。
つまり、
土方さんはもう外に出ているのだ。
「…嫌なことじゃありませんように。」
玄関で一瞬だけ立ち止まって、
私は川辺に向かった。
待たせているかもと思って、小走りになる。
「はぁ、はぁ、…あ。」
やっぱり。
隊服姿の彼は既に居た。
川の方を見たまま、静かに煙草を吸っている。
「土方さん!」
声を掛ければ、ゆっくりと振り返って。
「お前…、電話しろっつったのに。」
「あ。」
忘れてた。
「えへへ。」
「危ねェだろーが。」
"まァ夜間に呼ぶ俺が悪ィけど"
私の息は徐々に落ち着いて、
土方さんは何本目かの煙草を吸い終わった。
「仕事上がりですか?」
「ついさっきな。」
"お疲れ様です"と言えば、"おぅ"と返す。
町娘の私が、
土方さんと付き合っているのはあまり口外していない。
理由はない。
特に誰かへ言う必要もないだけ。
最初の頃は言いたくて仕方なかったけど、今はそんなことどうでもいい。
土方さんが私の隣にいる。
それだけで、
…良かったから。
「でもどうしたんですか?」
"ちょっと驚きました"
そう言うと、
土方さんは「あァ…」と意味深な返事をした。
そのままゆっくりと土手の方を見て、
「お前に…会いたくてよ。」
夜の風に溶けるかのような声を聞いた。
「…ぁ…、う、」
嬉しいです、
そう言いたいのに言葉にならない。
初めてそんなことを言われた。
直球な甘い言葉を吐かない人だから。
「ぅ…う、嬉しい…です、」
私の頭は確実にオーバーヒートして。
何とか声にしたけど、
自分の耳で分かるほど可愛くない音だった。
「…照れんな、馬鹿。」
"こっちも恥ずかしくなるだろ"
思わず俯いた私を、土方さんが優しく小突く。
ほんの僅かな瞬間、
シンと静かになったことすら気恥ずかしくて。
私たちは顔を見合わせて小さく笑い合った。
「土方さん、下に行きません?」
「暗ェから止めとけ。」
「大丈夫ですよー。」
足首までかかる草に足を踏み入れる。
土手を下るように進むが、時折、石がつま先に当たる。
「ったく。手ェ貸せ。」
ふらふらする私に差し出してくれた手。
「…ありがとうございます。」
一つ一つの行動に、心が温かくなる。
思い遣ってくれる。
胸が苦しくなるほど、私は土方さんが好きだと思う。
「うわぁ…、」
川の側まで行って、対岸を見てみる。
「真っ暗で…吸いこまれそうですね。」
"昼間に見る川とは全然違う"
川沿いには街灯がない。
そのせいで、川面を光らせるのは星と月の光だけ。
「俺もゆっくり見たのは初めてかもしれねェ。」
"見廻りは川より草ばっか見てるから"
彼は自嘲気味に笑って、新しい煙草に火を点けた。
ポッと橙の光は、
咥えられた煙草の先端に移る。
それは蛍一匹ほどの光なのに、
「…綺麗ですね。」
私の目に焼きついた。
「煙草が?」
「はい。なかなか綺麗な色ですね、煙草の火も。」
「そんな風に考えたこともなかったな。」
土方さんは煙草を手に持って、
その先端の光を夜に炙らせて見ていた。
川の流れる音だけになった時、
「…なァ、紅涙。」
どこか、ぼうっと煙草を見たまま、土方さんは私の名前を口にした。
「十六日、花火あんの知ってるか?」
「この河口で上げるやつですよね。知ってますよ。」
江戸の大きな花火大会だ。
遅い時間から始まるのが有名で。
今や町もそのチラシでいっぱい。
だけど私は今の今まで忘れていた。
「…それが、…どうかしたんですか?」
花火は関係ないから。
土方さんは仕事。
こういう時の休みは部下優先。
土方さんと行けないんだったら、行かない。
だから、
私はすっかり記憶の端っこに追いやっていた。
打ちあげるであろう河口の方を見ていた時、
「行くか、花火。」
耳を疑うような言葉を聞いた。
花火に?
「え?!」
「何だ、嫌か?」
「嫌なわけないです!でも…仕事は…?」
「あァ…それなら、…大丈夫だ。」
土方さんは、川の方へ顔を向ける。
その仕草が引っかかったけど、
「うわ…っ嬉しいです!」
そちらの方の気持ちが強くて。
私はすっかり花火のことしか考えられなくなっていた。
嬉しい!
絶対に無理だと思ってた。
予定外の出費になるけど、浴衣買わなきゃ!
簪も新しいの買って…、
髪型も研究しなきゃ!!
「すごく楽しみです!」
八日後の花火を想像して、土方さんに笑った。
「そうか。」
目を細めた土方さんと目が合って、
彼は短く、
「俺も楽しみだ。」
薄く笑んで、キスをした。
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