「ぅおりャァァァ!!」
土方さんなのか、
私を攫った人なのか。
どちらかの怒声と、何度も耳を貫く刃音。
奥歯が浮くような音が、真っ暗な視界に響いた。
耳を塞ぎたいほどの音なのに、
「ふっは…ぁ」
今一番、私を縛る感覚は生暖かい感触。
視覚が乏しいせいで、
より感覚が鋭く感じて気持ち悪い。
いくら逸れさせようとしても、逃れられない。
「くくっ、お前…土方の女だったのか。」
舌から解放された頃、男の声がした。
それに返事をすることもなく口を閉じる。
私は、
男の顔を知らない。
あの夜道、
土方さんのところへと歩いていた暗い道。
後ろから誰かに襲われた。
羽交い絞めにされて、
口を塞がれた手には布のような何か。
悲鳴を上げようと息を吸った時、鼻がツンとした。
何の臭いだろう…、
なんて考えてる間に気を失って。
気が付けばこの湿気臭い場所に居た。
「なァ、紅涙。」
「っやめてください!」
また掴まれた顎。
振り払うように顔を背けても、「馬鹿かお前は」と喉で笑う。
「自分の立場、分かってんのか?」
そう吐いた男は、
着物の上から雑に私の胸を掴んだ。
「っ、痛っ!!」
「何だ、優しくしてほしいのか。」
喉で笑う男は「我が侭な姫さんだ」と言った。
途端に胸に感じる冷たい手。
「っ!っやぁっ」
「ほら。ジッとしてねェとまた痛い思いするぜ?」
「っ…、ンぅっや、だっ、」
クツクツと笑う男の冷たい手が、
太ももにも感じて、下から撫でるように沿わされた。
「ッぁっっ、」
足がピクリと動く度に男は小さく笑った。
「…ますます欲しくなる。」
楽しそうな男の声が耳に入る度、後悔ばかりが頭を埋め尽くした。
ごめんなさい。
ごめんなさい、土方さん。
私が江戸で待っていれば、
こんな面倒なことにはならなかったんですよね。
私なんかが出来ることなんて限られているのに。
「っふ、ぅっ、」
どうして…、
行くって言ってしまったんだろう。
どうしてもっと、
冷静に判断しなかったんだろう。
「くく、泣くお前をヤるのも悪くない。」
やっぱり待っていれば良かった。
ごめんなさい、
ごめんなさい…っ、
「っ、土方っさんっ!」
「呼んだか?紅涙。」
彼の声を近くに感じて。
「土方さんっ!?」
「待たせたな。」
ああっ…、
すぐ傍にいる。
土方さんは、私のすぐ傍にいる。
その声に縋ろうとした時、
私に這っていた男の手がゆっくりと離れた。
「ほォ、万斉が殺られたか。」
「残念でござるが、拙者は殺られていないでござる。」
少し離れた右側から違う男の声がする。
「斬られたのは弦。もう拙者は戦えぬ。」
誰かの小さな溜め息が聞こえる。
「それで土方は斬らなかったってか。」
土方さんの声はしない。
でもそこにいる。
それが分かる。
それだけで、
私は泣きそうなほど嬉しかった。
「くくッ。甘いな、土方。」
"どこかの糖分馬鹿みてェに甘ェ野郎だ"
近くで下駄の音がした。
カチャリと刀を鳴らす音が聞こえる。
「殺るか殺られるか。必要なのはそれだけだろ?」
"違うのか、土方よォ"
息が、苦しい。
空気が張り詰めるというのは、このことを言うのか。
身体の芯が震える。
声を出したいのに、
空気ばかりを吸って声にならない。
その時、
離れた場所で「晋助」と呼ぶ声が聞こえた。
「今日は土方殿に免じて引き上げるでござるよ。」
張り詰めた線を切るように、その人が言う。
「拙者の侍魂に通ずるものがある。」
"雑魚は捕まったようでござるし"
遠くでガチャンと音がして、カツカツと歩いていく音が聞こえる。
近くで男が笑えば、
一瞬で空気が変わった。
「テメェら二人して甘ちゃんだよ。」
"さっきの殺気はどこに行ったんだか"
私の前で誰かが立ち上がる。
「…次会った時は、テメェの望むようにしてやらァ。」
「面白ェ、楽しみにしてるぜ。副長サン。」
どちらかが鼻で笑って、
「手放すのが惜しい女だ。」
男がそう言った。
その時にフワッと風が吹いて、
「っ!!」
身体を縦に裂くような痛みが走った。
「っテメェェェ!!!」
土方さんの怒声が聞こえる。
男は吐き捨てるように笑った。
「またな」と言い、下駄を鳴らして音は遠のいた。
小さな舌打ちがして、
「…、」
ああ、
こんな小さな音も聞こえるようになったと安心した。
「…。」
「…ぁっあの、」
普段に比べれば、ほんの僅かな沈黙。
今はそれすらも恐くて。
「っ土方…さん…?」
暗い視界の中、
私は土方さんを探す様に声を投げた。
「い、いますか?」
声を出せば、ドンと身体が揺れた。
締め付けられるような感覚に、抱き締められてるんだと分かった。
「っひ、土方さん…、ぁの…」
「…たかった。」
「え…?」
掠れていた土方さんの声。
首を傾げた時、すっと目隠しが外された。
暗かった視界には、
明かりのない倉庫すらも眩しく感じて。
目を細めた世界には、
頬に切り傷を負った土方さんが苦しそうに眉間に皺を寄せていた。
「…逢いたかった。」
僅かに震えた土方さんの手が、頬に触れた。
「かっこ悪ィよな…、手ェ震えてら。」
苦笑して、
土方さんの手が私の髪を撫でた。
「お前を失くすと思うと…恐くて…仕方なかった…っ。」
引っ張るように抱き締めてくれた腕。
「よかった」と声を漏らした土方さんの背中に、腕を回した。
「土方さん…っ、」
私も。
私も会いたかった。
土方さんに、
「逢いたかったですっ…」
切なくて、苦しくて。
何よりも、
嬉しくて。
いろんな涙が出てきて、
それを拭うように、土方さんの親指が私の涙を攫った。
よく見れば、
土方さんの身体には小さな傷がいくつもあった。
「私のせいで…、」
「…紅涙…、」
俯いてしまう私の髪を耳に掛けて、
「顔、見せてくれ。」
優しい彼の声が私の耳に入る。
頭に届く前に、
身体に染みて消えた。
惹き付けられるように、キスをして。
「っ、土方…さ、ん」
「…、あァ…、」
腕を伸ばして、首に縋る。
土方さんの後ろ髪が腕に触れた。
私の声に返事をして、
何もかもを攫ってくれるように舌を伸ばした。
「…そろそろ…やべェ。」
土方さんの体温が、私の身体が遠のいて。
「紅涙、」と呼んだ。
私が「はい」と言えば、「痛くないか?」と言う。
「どうして…ですか?」
「…それ。」
「"それ"?」
土方さんがゆっくりと指を差した。
伸びた先は私を指していて。
そろりと視線を下げれば、
「っ!なっ…何…?」
私の服が、身体の中心で真っ二つに裂けている。
赤く薄く、
滲む血を導くようにスッと傷が走っていた。
「そ、そう言えばさっき…、痛かった気が…。」
「高杉が去り際にやりやがった。」
"すまねェ"
土方さんはまた舌打ちをして、
私の二つに分かれた着物を両端から引っ張り、真ん中でギュッと持った。
「…傷の手当、しなきゃな。」
"早く宿に戻ろう"
土方さんは器用に私の着物を着付け、「歩けるか?」と手を取ってくれる。
「歩けます」と彼の手を取って、二人で歩き出した。
土方さんは私を見て、
また「マジでそろそろやべェ」と言った。
「あっあの、そんなに痛くありませんから私は」
「俺がやべェんだよ。」
「…土方さんが…ですか?」
私が軽く首を傾げれば、土方さんは「そうだ」と頷いた。
そして上を見上げて溜め息を吐く。
「土方さん?」
その空は、
蒼く、
僅かに紅く。
「宿屋に着けば分かるさ。」
長い夜の終わりを思わせたのに、
「せっかく会えたんだ、江戸へ帰る前にゆっくりして行こうぜ。」
にやりと笑う土方さんの顔は妖艶そのもので。
「あ…えっと、…はい…。」
先にある私たちの長い夜に、
目を背けて、頷くことで精一杯だった。
それから。
「これ、預かってきた書類です。」
"くしゃくしゃですけど"
何とか無事だった書類。
差し出せば、書類なんて放り投げて。
「わっ!」
腕を引きこまれた。
「俺、もう限界。」
「んんっ、」
私なんかが大坂に来て、
迷惑を掛けると分かっていた。
なのに、
やっぱり来てしまったことを謝ったのは熱の途中。
「っんぅっごめ、なさィっあアァ!」
「っ何を、謝ってんだよっ。」
どうしてその時に謝ったんだろうと思うけれど、
どうしてもその時、
頭にこびり付いて仕方なかったから。
何よりも、
「会いたくて…仕方なかったんです…。」
"そのために大坂まで来ちゃいました"
火照る身体を寝転ばせている隣で、
土方さんに力なく笑えば、彼は目を大きくして。
「どうしたいんだ?俺を。」
困ったように笑う彼とは正反対に、
また長く、
甘い夜が始まった。
「…紅涙、」
また、
こんな風に離れる時が来る。
きっと土方さんは、
その時もまた私を置いて、一人で行ってしまう。
「お前のためなら何だってしてやるよ。」
そんなこの人に、
私ができることは何だろう。
何度好きだと言っても足りないけど、
せめて、
あなたがどこに行っても、この気持ちを伝え続けよう。
そんなことを考えながら、
私はうとうとと深い闇に身体を沈ませる。
「紅涙、」
夢の底で、
「…ありがとう。」
土方さんの声が聞こえた気がした。
ReMake:2011.10.05
*せつな*
***Thank you for マウス1号さま!
***2008.08.23