陸・亀ノ甲ヨリ
次の日、有碍書へと潜書した。
『歌のわかれ』において、人数が3人に増えたこともあってか、どうにか勝利出来るようになっていた。ボスマスと司書が呼ぶ最深部に辿り着きその敵を撃破すると、彼らは一冊の本を手に入れた。


「中野重治といいます。しげじとか、じゅうじとか言われていたこともあったかな」

手に入れた本からは眼鏡をかけた青年が転生した。『歌のわかれ』は彼の作品の1つ。作者のお出ましということだ。
辰雄と重治は旧知だったようで、積もる話もあるのか語り合い始めた。

「桂花さん、午後の有魂書は僕と菊池さんで行くよ。」
「わかった。宜しく頼む。」

彼らに気を使ったらしい2人。死に別れてから時を経て、不思議な縁によって再開した2人をそっとしておいてやりたいのだろう。彼らに所縁ある人が転生した時も、彼らはあの2人のように喜ぶのだろうかと取り留めのないことを思う。

「で、どうして君は微妙な表情をしているんだい?」

不意に秋声からかけられた声に、はぁと諦めに満ちた溜息が自嘲するかの如く漏れる。
司書にしては珍しい様子に、寛も近づいてきてどうしたと声をかける。既に漂う兄貴肌に、とうとう弱冠な彼女は諦めたかのように微笑を浮かべた。

「いやね、私、司書に任命される前は軍部所属でさ。然も暗部なんて云う所詮何でも屋。警官の応援から暴動の鎮圧、更には反逆者の暗殺まで請け負ってた訳よ。」

なんてことないように彼女は呟いたが、然しその内容は文士2人に衝撃を与えるには充分だった。

「桂花さん……とんでもない経歴だね。」
「アンタ、よくそれで娑婆に出されたな……。」

作家の語彙力を喪失させる威力を持った経歴に、2人は力無く声を出した。
だが2人にはそれだけで十二分にその懸念が伝わった。
中野重治らプロレタリアの文豪は恐らく過去の経歴的に軍や政府にいい感情を抱いていない。同胞である小林多喜二がそういった存在に殺されたことから、それはほぼ明確だ。プロレタリアから転向せざるを得なかった重治にとって、その感情は一入ではなかろうか。

「元軍部で政府機関とはいっても、既に私の経歴的に上は私を放任している。下手に刺激しては暗殺されかねないみたいな認識を植え付けてるから、圧力をかけられることもないし、業務の融通だって効かせられる。
だけど、それでも私は元軍人でありここは政府機関。」

さア、どうしたものかねぇ。
初っ端から人付き合いに悩むとは。桂花は元々八方美人を演じるのが得意であった。情報収集も仕事の一つであるからだ。表面だけ繕えば大抵なんとかなる。
だがいつかは打ち明けなければならないことだ。これから長いこと一緒にいるのは明白。ずっと化けの皮を被り続けるわけにはいかない。そうでなくとも、そのうち裏仕事が舞い込んでくるだろうからバレるまでも時間の問題だ。
パチッと音がする。寛が燐寸で煙草に火をつけていた。そうだ、後でライターを買ってやらねばと思っていたのだ。

「わかった、そいつは俺たちでどうにかしてやる。」

寛が笑って、フーッと煙が漏れている。
目をぱちくり動かした桂花に、思わず秋声も笑ってしまった。
こんな歳相応というか、可愛らしい仕草もするのか。何というか意外で、少し安心もした。

「あんたは胸を張って堂々としてるんだな。
法の元では悪かも知れねぇが、あんたがしていることは誰かの為に血を被る行為ということだろう。過ぎた偽善ということにしておくさ。」

頼れる兄貴風を煙草とともに吹かした寛に、桂花の目が細められる。何となく、これは親しみが篭った『これが仕方ないな』『全くもう』も表しているのではないかと秋声は気付き始めていた。伊達に自然主義をやっていない。まあ、表向きは尾崎一門だが。

「桂花さんって、絶対隠し事上手いよね。何でもかんでも隠滅しそう。」
「そりゃね。隠し事くらい出来なくちゃ死ぬようなところにいたし。」

再び大人の仮面を被ってしまった彼女に、何度目かのため息が漏れた。気づけば、口は動き出していた。

「あのねぇ、どうせ今回は後で説明するのが面倒だからってわざと顔に出したんだろうけどさ。
話を聞くにこれから君のところには色々な仕事が舞い込んで来るんだろう?その度に君に全部抱え込まれたら困るよって話。君のことだもの、大人には頼らない姿勢を貫こうとするんだろう。
でもね、僕や堀くんは君に着いて行くって決めたんだ。誰でもいいから頼ってくれなきゃ困るんだ。これでもみんな君より年上のはずだからね。」

がみがみと怒る彼。呆れたようなその口調は、確かに桂花の考えを見抜いていた。
初めてだ。こんなに、心を見透かされた上で怒られるのは。今迄とやかく言う大人などそれなりに見てきたが、こんな叱られ方は初めてだ。
あゝ、流石は文豪だ。隣の寛の様子を見るに、大体秋声と考えは一致していたのだろう。
抑、彼女の経歴なぞ普通の人が聞けば卒倒モノだ。それを苦笑一つで済ませた彼等には脱帽する。戦争を知るからか、それとも一度死んでいるからか。
いずれにせよ、本当に恐ろしいことだ。

「はぁ、降参。年の功と文士様の観察眼には私もお手上げだ。」

へらり、と自然と口元が緩んだ。
そうじゃないんだけどとか秋声はぼやいているが、寛は彼女の頭を撫でてきた。
偶には子供みたいに叱られたり、甘やかされたりするのも悪くない。
もう体験すると思っていなかったそれが少しくすぐったい。彼女にしては珍しく、暫く成されるがままだった。
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