漆・監視
その後、寛は重治を呼び出して先程の話を語った。辰雄には秋声が伝え、暫く考えた後に改めて辰雄は桂花に着いて行く意思があることを直接彼女に伝えた。

気を利かせて、寛は話していた食堂に重治を座らせたままでいてくれた。入り口付近で煙草を吸っている彼の横を通り過ぎ、重治と同じテーブルに座る。辰雄や秋声は扉の影に潜んでいる。そっと見守る姿勢でいてくれる彼等に感謝しつつ、彼女は気まずく口を開いた。

「聞いたと思うけれど、私は随分と特殊な人間だ。
ただでさえここが政府機関であることは貴方にとって微妙なことだろうに、その上私が元軍部ときた。軍部といっても、嘗ての特高に近い存在かもしれない。既に私は人を幾人も殺めている。死んだ者は二桁、怪我を負わせたなら三桁は余裕で超える。
大義名分があるとはいえ私が人殺しであることには変わらない。」

さあ、どうしますか。
重治の目の前で笑ってみせる彼女。重治は暫く何も言わなかった。ただ、彼女の目をじっと見つめていた。

「もし、僕が君のもとで生きることを拒んだら、如何するつもりかい。」

彼女もまた暫く口を閉ざしていた。たっぷり間を開けて、答える。

「貴方が望むなら、貴方を解き放つ。殺してくれと言うなら叶えるし、市井に紛れたいと言うのならそれが叶うよう計らうこともできる。当然以降この圖書館に『中野重治』は転生しないようにする。
こんなところか。」

彼は眼だけは逸らさなかった。彼の内側では様々な言葉が鬩ぎ合っている。彼女の言葉を飲み込む程、言葉たちはより激しく身体の中で暴れ狂う。

「僕は特高にはいい思い出がない。だから、直接関係が無い君のこともよく思えない。」

カチ コチ
食堂の大きな柱時計の音が大きく響いて聞こえる。鼓動が聞こえてしまいそうだ、と思ったのは、一体誰であったか。

「でも、君のところには居たくないと言ったところで僕は望む生なぞ得られやしない。
ならば、君のもとにいる方がまだいい。僕には、果たせなかったことがあるから。果たさねばならないから。」

ぎゅう、と机の下で彼の拳が握り締められる。何処か影を抱えたこの男は、時折悲しい目をしていた。

「そのかわり、僕に君を監視させて欲しい。もう彼が傷つくところを見たくないから。
もし君が嘗ての奴らのように彼を、いや、彼だけじゃなくて僕の同胞達を傷つけたなら、その時は僕が君を殺す。」

さあ、如何出る司書!重治は啖呵を切ったまま、相手の出方を伺った。
そして、声を失った。
確かに彼女の表情は先程とあまり変わらない。だが、その目は、酷く哀しく影を帯びていた。そこに映る自分と、全く同じ目をしていたのだ。
何故だ。何故君までそんな顔をしているのか。聞きたくて、でも怖くて聞き出せない。如何してそんな目で、僕を見ているのか。

「その条件、飲もう。寧ろ貴方には一つ頼んでおく。
……もし、私が道を踏み外した、貴方がそう思ったその時、この命を貴方に預けるよ。」

桂花はその哀しい目のまま、また一つ笑うのだ。そして、そんな大層且つ残酷なことを、いとも簡単に吐き出してしまう。自分でも言うのに覚悟が必要だったようなことを。
計り知れない恐ろしさと、言いようもない憐憫の情が同時に溢れてきた。
まだ二十歳にも満たない、比較的遅くまで生きていたあの時と法が変わっていないのなら、彼女は子供だ。親から離れる年頃とはいえ、酒も煙草も禁止された、然も彼女のように頭がよければ普通は学生であろう年齢だ。だが最終学歴は中学校だと聞く。理由なぞ聞かずともわかる。彼女はあまりにも特殊過ぎる。
若い、いっそ幼くして茨の道を歩むから、彼女の考えは矢張りそう哀しいものになるのだろうか。更に、先程の反応から見て、過去に何かあったは明確。
何が彼女をここまで追い立て、こんな顔をさせるのか。今の見た目以上の大人であるはずの自分がこんな責め立てるようなことしか言えないのが、もどかしい。
やめてくれ、笑わないでくれ。そんな顔で、そんな泣きそうな顔で。
自分の葛藤を全て見抜いて笑う少女に、かける言葉が暫く見つからなかった。

「……成る程、僕は少々君を見誤っていたようだ。」

漸く絞り出した声は、震えていなかっただろうか。
スッと立ち上がって、桂花の椅子の横に移動する。彼女もまた立ち上がって、目線がしっかりと重なり合った。

「そんな顔されちゃ、信じるしかないよね。
でも約束は約束だ。君のこと、ちゃんと監視させて貰うよ。」

きっと、それは救いなのだ。人としての道を踏み外している彼女は、完全なる外道にまで堕ちずにギリギリのところで持ち堪えている。
己を裁く人がいることで、彼女は安心出来るのだろう。その証拠に、酷く満足げな顔で笑んでいる。
その笑顔が矢張り哀しくて、取り敢えずその頭を撫でていた。
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