■ の(飲み下せません)

「──で? ここまで来てそんな風に渋る理由を、わかりやすく教えてもらえるかしら?」


 ベッドの上で、着衣を乱れさせた男女が一組。
 これ以上なく説明不要かつ成人指定な場面に突入しようという恋人たちを取り巻く空気は、盛り上がり絶好調だった筈だ。

 躊躇いがちなキスが段々と深く熱いものになり、着ていたジャケットが床に落とされ、ゆっくりと裾から服が掻き上げられて、ベッドに倒れこんだ私を追ってツェッドくんも膝を付いて──そして迎える、恋人たちのワンシーンにしてはごくごく当たり前ながら、私たちにとっては記念すべきたった一度の初めて記念日。
 なのに、脱がされるのを待つだけのシャツが本懐を遂げようとする直前、ツェッドくんは動きを止めた。うううと呻いたかと思うと、裾から手を引き身を起こしてしまったのだ。それも暗がりでも分かる程に、今にも泣きそうな顔をして。

 すみませんでもやっぱり駄目ですやめましょう。

 ここで「そうね、わかったわ。やめましょう」なんて返せる自分を私は知らない。けれど「恥かかせやがって、一昨日来やがれピー野郎」なんて罵る程にも見境は無くせない。むしろ「私、何かした!? ごめん私何か不味いことしちゃってた!?」と自身の振る舞いその他アレコレを振り返り焦るばかりである。

 しかしそんな私になぜか益々慌てたのがツェッドくんで、直ぐさま「違うんです、なまえさんが悪いんじゃなくて僕が……!!」と肩を掴まれた。
 いつも紳士的なツェッドくんにしては珍しい、加減の効いていない指は私の肩に思いのほか強く食い込んで、さらには角度も不味かったようで硬い爪の先端が肌をぐいと押し込んだ。
「……ッ」
「わ、すみません!? あの、だからその……やっぱり……僕となんて……」
 さすがにちょっと痛いんだけど。そんな事を告げるまでもなく、ツェッドくんの手は弾かれたように私から離れていたし、尖った指先は目にも留まらぬ速さで死角に消えていた。
 要領を得ないまま謝罪と釈明に口を動かすツェッドくんは、ここしばらく見た覚えが無い程に意気消沈している。指先を隠すために、不自然な傾けられ方をする手元。腕の鰓を隠そうとしてか、不自由に捻られた身体。私を見る事を諦め、恥じ入るように逸らされた視線。
 そんなに傷付いた顔をするなら、理由なんて適当にでっち上げて逃げ帰ればいいだろうに。真正面から私に謝罪して……今だってこうして、向けられるだろう非難の声を待っている。もはや不器用過ぎて貧乏くじとしか評価出来ないような真摯さを前にしてしまえば、私の混乱も溶けていくしかない。
 ああまったく、こうなると損な性分なのはお互い様だ。これ以上無く"そんな"ムードの中、据え膳を蹴られた女性の心情がお分かりだろうか。泣きたいのも恥入りたいのも自尊心がズタズタなのも女である私の側である筈なのに、相手がツェッドくんであるばかりに私は悲劇の主人公にも荒ぶる女傑にもなれやしない。
 覚め始めた頭は早くも私自身に理由を求める事をやめ、ツェッドくんの言葉と行動をなぞり始め……そしてすぐに行き当たった結論にしまったなぁと吐息が漏れた。その溜息をなんと誤解したのか、ツェッドくんの肩がびくりと跳ね上がる。ほら、まったく、この人はこれだから……。

 そう、理由はなんだ原因はなんだと考えるまでもない。
 初めからそれしか可能性がないと言ってもいい程に、彼の引っかかりどころなんて明らかだったのだから。私の身体に萎えたのでなければ、次に大きい可能性はツェッドくん自身についてであり、そもそも彼は常日頃からその手の負い目を抱えていた人なのだから。
 恋人同士という関係になって暫くした今日この頃では、いい加減に慣れてくれたものだと私が勝手に思っていただけで……こうなるのが早過ぎたとは今でも思わないけれど、彼の抱える負い目がこれほどのものと考えが及ばなかった事に対しては完璧に失態だった。
 幾ら言葉で好きだと伝えてみても、見上げた所から頬笑みが返されていたとしても、それでツェッドくんの心に触れることを許されたと安心するのは早計過ぎたのだ。躊躇いがちに伸ばされる指先の震えに気が付いていたくせに、それが単なる不慣れな緊張からくるものか、それとももっと根底にある不安からくるものか、そこを見誤ってきたのは完全に私の落ち度でしかない。導き出された後悔は、順調な道筋を意気揚々と踏みしめていたつもりの私をどん底へと突き落とすものだった。

 けれど、幸いなことに──どん底を目指す記憶の中には命綱の存在も確かにあって、そしてその命綱が今もなお繋がっている。

 その命綱とはつまり、どう推し量ったところで絶望的なまでに羞恥心まみれになっているだろうツェッドくんが、それでもこうして私の元に居てくれる事実である。
 土壇場でこの有様とはいえ、少なくとも先程まではツェッドくんだってのり気だったのだ。この部屋に入るまでの道中だって、そして今夜に至るまでの時間だって、決して悪いものではなかった筈だ。どうしようもない程の不安と負い目を抱えながらも、それでも私と"恋人"であることをツェッドくんは選んでくれていたのだ。


 こうして思考を巡らす間も、美しい身体と精神を兼ね備えた宝石のような男性は、一向に訪れない断罪の時を待ったまま静かに項垂れている。
 私のせいにしてしまえばいいのに。つまらない理由をでっち上げればいいのに。それどころか、いっそ私に気を使わずどうなってもいいと開き直ってしまえばいいのに。
 けれども他人に甘く自分に甘く、目隠しして誤魔化すような……そんな風に適当で楽な道を選べないからこそ、この人は美しく──だからこそ、こんなにも惹かれるのだ。

 なるべく普段通りに、ただし少しだけ拗ねた口調で、僅かばかり傲慢に聞こえるように問いかける。

「──で? ここまで来てそんな風に渋る理由を、わかりやすく教えてもらえるかしら?」

 ……一体、どんな罵声を想定していたのだろうか。
 上目遣いを行使してぷんぷん拗ねてみせる私の問いかけに、ツェッドくんはまるで信じられない言葉を聞いたというような見事な慌てようで顔を上げた。

 心がすれ違ったままで、身体を重ねてどうするの?
 そんな声もあるだろう。けれど言葉を重ねて手を重ねて、それでも解けなかったわだかまりならば多少の荒療治もあっていいじゃないかと思うのだ。それに、結局のところ……"出来る"か"出来ない"かという不安に決着を付けるには、実際に"出来る"ことを見せ付けてしまうことが一番確実だろうし、この人にいつまでもこんな顔をさせていたくないし、なにより私が限界だった。

 振り返るまでもない。
 仮に今日までの二人の歩みをムービーとして上映し「これはピュアな恋愛ものか」と問えば、十人中十人が程遠いと首を振るだろう。この美しい人との時間を、これ程までに純情ロマンスから懸け離れた恋物語に仕立ててきたのは私自身だ。仲良くなりたいと思って、仲良くなれるようにと機会を重ねて、ただの"仲良く"では足りないからと意識改革を求め口説き倒したのは私の方なのだ。今更、ロマンチックなムードで先導して欲しいなんて苦笑ものだし、そんなお姫様願望を脱ぎ捨ててしまえば……その下にあるのは赤頭巾の甘さに舌舐めずりをする狼の心臓だと認めないわけにはいかない。
 ご馳走を目の前に、今更さようならと見送れるわけがない。あなたの声を聞くための耳も、あなたを味わうための口も、準備万端でここにあるのだから。


 だから、さあ……今夜も口説き落としてやろうじゃないか。



(2015.07.23)
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