■ 天涯のミルフィーユ 1

「やあやあエルネスタ、待ち草臥れたよ! と言ったところで僕ァはご覧の通りの暇人だから、気にしてくれなくて構わないんだけどねぇ!」
 これで当人的には嫌味でも自虐でもないというのだから、なんともやりにくい。
 ハッハッハとおどけた笑いを吐き出す口元の、その上。仮面の奥にあるだろう彼の瞳が本当に笑っているのかどうなのかなんて、私にはまるでわからない。

 但し、今ここで私がぴきりと音を立てて硬直した理由は、その仮面の下の表情を推し量ってとかそういう事ではなかった。この非日常が集うHLの中でもとびっきりに要注意な堕落王フェムト様を待たせてしまったのなら、まあそれはそれでヤバいことではあるのだけれど、ある意味"今更"と済ませられる程度のことだ。とはいえ……この超人気店であり超超超ハイランク、一般人なんて逆立ちどころか全財産投げ打ってもコネなしには立ち入れないようなこのハイグレードレストランであるモルツォグァッツァに対してまさかの大遅刻!というのは非常まずい。実にいただけない。しかも多大なるご迷惑をおかけしていた癖に、その事実にも気付かずにのうのうとエスコートされていたなんて、そんな、そんな、なんて罪深い!

「え、え、えええ、時間間違ってました!? うわどうしようごめんなさい、ごめんなさいぃぃぃ!」

 目の前の堕落王から勢いよく視線を外し、その場でくるりと半回転。椅子を引こうとしてくれる案内人に向き直った私はそれはそれは必死な顔をしていたに違いない。
 そんな私に対して、表情こそ読めないものの相変わらず物腰柔らかな彼(?)の口らしい部分から「ご心配には及びませんよ」と穏やかな声が発せられるのと、いつもの男がいつもの調子で「全く君はいつもいつも早合点が過ぎるねぇ! 伝達ミスだなんてまさかこの僕がそんな間違いを犯す筈がないだろう。さあさっさと座りたまえ、僕は君との時間を心待ちにすることによって今日まで退屈を凌いできたのだから」と言い始めたのは同時だった。なんてことない、時間は合っていたらしい。
 それにしても、"君との時間を心待ちに"か。ともすればストレートでスイートな口説き文句に聞こえるのだろうが、生憎この堕落王が会いたがっていた相手は私であって私ではないことを、何を隠そうこの私こそが嫌という程思い知っている。今だって、焦る私に対してこうして嬉々として構ってみせながらも、実のところは私自身については輪郭すら覚束ないような認識でしかないのだろう。

「……ふぉっ!? なんてとろり濃厚……かと思えば奥底には痺れるような爽やかさ……!? ああ、開けてはいけない扉が今目の前に……!?」
「どうだいエルネスタ! 崩れ落ちる程に美味だろう!! しかし君はさすがだな。初めて連れて来た時など前菜で陥落していたというのに、今ではさながら涙腺決壊のみっともない有様とはいえ一応最後まで料理を楽しめるようになっているじゃぁないか!」
「はぅ……そ、それは私に呆れ果てながらも、こうして何度もお招き下さるフェムト様のおかげに違いなくでですね……」
 ひくひくと全身を小刻みに震えさせながらも、思考が口と繋がっていられるうちになんとかという気持ちで言葉を絞り出す。だというのに、この扱い難い超人をここぞとばかりに褒め称え感謝のシャワーを降らそうという努力も虚しく、感謝感激雨霰と言い尽くす前に私の口はその堕落王フェムト自身の希望によって縫い付けられる。
「エルネスタ、いいかい私は同じことを何度も言うのは嫌いだよ……"様"も"さん"も不要だ。僕はフェムト。君はエルネスタ。それでいいじゃないか」
 ぴんと伸びた指が支えるナイフの切っ先は、相変わらず美しく盛られた魚の切り身に刺さっている。どう見間違えようが、私の喉に向けられているわけじゃない。けれども、もしここで私が首をふるふると動かせばきっと……彼は瞬きのうちに私の喉元目掛けてその長い指を動かすのだろうし、結果見事に私の食道を切断したところできっと眉一つ動かさないのだろうと軽々と想像できてしまう自分が嫌だ。ああでも、せっかく配膳された職人技のお皿を無駄にしてしまうことに対して、そして再生者を相手にしてとはいえ行き過ぎた行為で床を汚してしまったことに対して、謝罪はするかもしれないけど。(でも彼はここを気に入っているから、きっとそんな物騒な手段ではなく私の皿を取り上げることでお仕置きとするのかもしれない。)
 そんなわけで私は食の歓喜とは程遠い震えを必死に我慢して、精一杯の去勢による目一杯の傲慢さで「心外だわ」という顔を作り、何事もなかったかのようにこの空気を流す為の言葉を発することにした。

「やあねぇフェムト。ただの冗談だってのに」



  ***


 
 例えばここで「誰が"エルネスタ"よ」と言ったところで、それによって彼が失望を覚えることなどないと分かっている。
 けれども、言ってみたところで。彼の唇が決して「なまえ」と動くことはないことも、嫌という程に分かっている。
 気分を害した様子も見せず、傷ついた様子も見せず、ただ理解出来ないなと不思議そうに言うに違いないのだ。
「それがどうしたと言うんだい? たとえ他の誰かが今の君をそう呼んでいたところで、僕がエルネスタと呼ばない理由にはならないだろう?」

 全くもって失礼なことだ。
 それ以上に、全くもって恐ろしい事態だ。

 百年規模の摩訶不思議なら飽和状態という呆れた有様のHLの中でも、群を抜いての奇人変人要注意人物であり身勝手かつ気分屋と悪名高い堕落王フェムトに、個人として認識されているなんて。そして、なんだかんだと定期的に食事に連れ出されているなんて。しかも、その先があのVIP御用達のモルツォグァッツァだなんて。この街に足を踏み入れたばかりの、人類にしてはちょっと裏を嗜んでいますよ程度の数年前の私なら、あまりにも非現実過ぎて想像すら出来なかった展開だ。

 けれども、今日もこうして私は──この店でならいつもより数割増しの常識を心得てくれるらしい堕落王を前に、いつもと同じようにフォークを片手に付き合うのだ。
 そして運ばれてくる人智を超えた美味に打ち震えながらも発展性のない会話に花を咲かせ、行き着くところのない思い出話に相槌を打つのだ。
 恐ろしいとは思う。迂闊なことをしているとも思う。我らがリーダーや参謀に涙ながらにこの関係を訴えれば、どうにか出来ないこともないだろうに……と思わなくもない。
 それでも私は、こんな薄まりきった血に数百年も昔のたった一人を重ねて、懐かしむように話しかけてくる存在を邪険にすることが出来ず、こうして奇妙で不毛な逢瀬を重ねている。

 繰り返し繰り返し。まるで、過ぎ去った名を記憶の淵から引っ張り上げようとするかのように。しつこいくらいの勢いで呼び続ける堕落王フェムトに対し、最近は当たり前のように「はぁい」と返事を返すまでになっている。いつのまにか、少なくとも……もう暫く"エルネスタ"で居てもいいかなと思ってしまう程度にはほだされてしまったようだ。

 だってこんな高級店に来る機会なんてそうそうないし、実際食べるたびに昇天しそうな程の美味しさだし、こんな風に何世紀も前の話を昨日のように語られるのも貴重な体験だし、それに何より──少なくともこの究極を追求する至高のレストランでの彼は、いつものお触り禁止な狂人よりは少しだけ付き合いやすい気がするから。



(2015.06.14)(タイトル:亡霊)
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