■ END

「ねえなまえ。次のモルツォグァッツァはいつにしようか」

 なんせ君、あそこでしか会ってくれないしさぁ──これ見よがしに掲げられたお皿に魅惑のシュークリームが積まれている以上、これはただのお誘いではなく脅迫にしか聞こえない。
 そして返答以前に、まずその言い方があんまりだ。超高級レストランでしか会いたくないと駄々をこねる女だなんて人聞きが悪いにも程がある。それに私がそんなことを望む理由は、そもそもこの堕落王フェムトにあるということを忘れないで頂きたい。「いや、だって普段のフェムトってネジ吹っ飛んでて怖いんだもん」と言いかけて──そんな伝え慣れた理由よりずっと重要なことに気が付いてしまった私は、舌先まで来ていた言葉をごくりと飲み込んだ。
 今、この狂人はなんと言っただろう。いつものように、「エルネスタ」と……いや、わかっている。違う。聞き間違いじゃない。
「え、あ、あの。フェムト、今……」

「"この私"による治療は拒否する癖に、自身の糧にはしようとするのだぞ? こんなにも傲慢で愚かで阿呆で──それでいてハイセンスな死に損ないの価値を、この僕が理解しないとでも思うのかね」

 いつもの笑みを引っ込めて鼻をフンと鳴らした彼は、珍しく真顔で(といっても当然、仮面越しの印象でしかないのだけれど)それは間違いなく、数百年後に現れた面影に向かって過ぎた日々を重ねる狂人の顔でもなければ、指先一つでこのHLに破壊と混乱をもたらす退屈嫌いの暇人の顔でもなく、あの最上を追求する誇り高いレストランを愛する礼節を知る客の顔とも少し違い……見慣れない男の姿に、ふと初めて堕落王フェムトに遭遇した時のことを思い出す。けれどもあの時のように泣き叫び逃げ出したくなる程の恐怖は感じない。それどころか、胸に浮かぶのはどうしたって誤魔化せない歓喜という感情だった。
 超人の一千年から見れば、ただ人の一生など瞬きする間のようなものだろう。事実、いつかの彼はそう言っていた。一個人との関わりなど、せいぜい四半世紀。けれどその四半世紀すら割く価値のある存在は滅多に居ないのだと。だからこそ私は、有象無象の名無したちとは違い"エルネスタ"と呼ばれる"彼女"が羨ましく、そして"彼女"を投影される自分が少しだけ誇らしかった。確かに面倒だったし怖かったし出来れば遠慮したい立ち位置だったし関係だったのだけれど、それでもこの至高の存在の視界に在れることに……私は確かな喜びを感じていた。
 だというのに、確かに今、堕落王は"彼女"ではなくこの私の存在を認識してこの私の名前を呼んだのだ。

「さあなまえ。僕のここに、もっと君を刻みつけておくれ。君の面白さはこんなものじゃぁないだろう?」

 さあ、楽しい楽しい舞台の幕は切って落とされた。つまらないことで壊れないでおくれよ。
 物騒な言葉と共にひょいと差し出された手のひらには、黄色い目玉と緑のクリームが詰まった美味しい美味しいシュークリームが乗っている。ただ並んだだけでは買えない超有名店の限定品だ。
 返事の代わりに、(大崩落前なら絶対に口しなかっただろう)悪夢を集めて固めたような魅惑の甘味を前にあーんと大きく口を開けば──手袋に包まれた長い指が、ゆっくりとそれを押し込んでくれる。



(2015.06.18)(タイトル:亡霊)
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