■ いつか星に手が届くとき 上

 分厚いカーテンの内側。
 たったひとり残された部屋に響く"ぱちんぱちん"という音のなんと物悲しいことだろう。
 いつもより深くまで刃を入れて、これ以上無いほど丁寧に丁寧にやすりで仕上げた爪はその甲斐あって見事な曲線に仕上がった。今ならば、たとえどれだけの力を込めたところであの背中に傷は残せないだろう。けれども、こんなにも優しい指先ですら思い描く"ソレ"には程遠い。
 工程だけ似せたところで所詮はどこまでも私の手でしかないこの手に、幾ら唇を寄せてみたところで真に満たされる瞬間はない。わかりきっていながら、それでもこんな愚行に興じている。さて、今の私はどんな顔をしているだろうか。

 ──ビノールト。

 吐息にのせて吐き出せば、きゅうと疼くのは空っぽになった肺よりずっと下である。
 なんてことだろう、あまりに素直すぎないか。そんなふうに呆れる以上に自分の変化が愛おしくて、脳や心臓よりもよっぽど"こころ"に近いこの場所に促されるままに瞳を閉じる。
 遮断された視界に映る景色は、現実の薄暗さとは似ても似つかない。ひとつひとつ、最初から、確かめるようにそうっとなぞっていく。
 硬く乾いた指先が私の皮膚を引っ掻かなくなったのは、いつからだったろう。短く滑らかに整えられた爪に気が付いたのは、いつだったろう。ごつごつと骨ばった長い指から、迷いが薄れ始めたのは。力任せに握り込むだけだった手のひらが、私の髪を撫でるようになったのは。そして、あの指を奥深くまで埋められることに、蕩けるような快感を覚えるようになったのは。恐る恐る伸ばされた指先が震えていたことも、加減を知らない手によって傷つけられたことも、今でも私はちゃんと覚えている。
 今では好き勝手にこの身を翻弄するまでになったあの手との思い出を振り返るだけで、堪らない心境になる。けれど、今すぐこの手を使って慰めたところで気休めにしかならないと理解出来てしまうからしない。代わりに、ひとつ深く息を吸い込んで、寂しいと訴える下腹部を待ち望むものとは似ても似つかない手でそっと撫でる。
 特にいつもより出ているわけでも引っ込んでいるわけでもない腹だ。ごくごく普通で、何の変哲もない、ありふれた女の腹だ。それでも、この変わらない腹の奥にはひっそりと息衝くモノがあるというのだから……感慨深い。
 まだ超音波ですら捉えられない初期の初期でありながら、専門医の所見も待たずに"それ"だという確証を持てるのは云うまでもなくビノールトのおかげだ。「自分の体は自分が一番よく知っている」とよく聞くが、この方面に限っては彼の方が私の身体をよく知っていると断言できる。何よりも、心当たりなら振り返る必要もないほど"たっぷり"ある。
 そしてそれはビノールトも同じだったのだ。だからこそきっと。今はまだ小さく、微かな違和感にすらなっていない、"この先どうなっても不思議ではない"こんな頼りない腹を相手に、目一杯に動揺してくれたのだろう。


 告げることすらしない内に相手に逃げられた女が浮かべるには随分と不釣り合いな微笑みで、すっかり呼び慣れた名をまたなぞる。
 幾ら呼んでみたところで応える声は勿論ない。振り向いたところで受け止めてくれる手も勿論ない。ふたりで過ごしたこの部屋のどこにも彼の気配はないけれど、そんなことすらどうでもよかった。
 悲しくもなく、恐ろしくもない。
 だって、私が選んだ男はこういう男だととっくにわかっていたから。臆病で、不器用で、それでいてどうしようもなく私を望んでいるあの瞳を想うには瞼を閉じるだけで十分だ。ああ、なんて可愛らしいひと。かつて彼を私へと結び付けた荒縄はもうないけれど、代わりの誓いはたっぷりじっくり何重にもかけてきた。ふたりだけの言葉で、ふたりだけの行為で、ふたりだけの時間で、幾重にも結わえた縁は簡単には解けはしない。

 浮かべた笑みをそのままにして、開けっぱなしの窓辺に向かう。分厚いカーテンを勢いよく引けば、すぐさま光が差し込んでくる。眩しさに細めた視界の隅で揺れるのは、走る車と通行人と、それから──ひょろりと細い影がひとつ。
 相変わらずの身のこなしで直ちに物陰へと消えてしまった人影を追いたいところを我慢して、頭上の太陽に向けてうんと伸びをする。見えているといいな、などという期待はしない。期待なんて必要ないくらいに、あの瞳が私を映していることを断言できる。
 慎重なようでいて時にとことん大胆で、怖がりなくせに逃避が下手なあの人にとって、私を"見失うこと"は簡単ではないだろうから。

 ならば今しばらくはそこでそうして、好きなだけ戸惑えばいい。それに何より、あれでなかなか腹のくくり方を知っている男だからな。
 ひょっこり戻ってきた暁には、うんと抱きしめて褒めてやろう。相変わらず何の変化も認められない腹に手をやりながら、不思議なほど穏やかな気持ちで信じていられることの幸福さにしみじみと目を細める。

 大丈夫。
 帰り道がわからなくなっても、迎えに行ってあげるから。



(2017.04.09)(タイトル:fynch)
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