■ いろをわけてあげる

「あー…………ねえビノールト、ちょっとこっち来れない?」

 いいものがあるよと呼ばれるままに覗いたキッチンで、何やら機嫌良さそうななまえが手を向けてこう言った。
「これいる?」
 すっぱり切れた指先に血を滲ませながら問われても、困ってしまう。
 確認するまでもなく軽傷中の軽傷であるそれを「大丈夫か」と気遣うのは違う気がするし、それ以前に要る要らないの二択が示すものが解らない。まさか、食材やまな板に血が付いた可能性を気にしているのだろうか。それらを使って料理をしてもいいかを問うている?……まさか。
「えーっと、一体何をしていて?」
「チョコレートドリンクってのを試そうとしたら滑っちゃった。で……って、あーほら、垂れちゃうから。早く舐めて」
 ここまで直接的に促されては、さすがに理解出来ないと言うわけにもいかない。そうこうしている間にもなまえが言うように真っ赤な血はぷくりと膨れ上がる段階を過ぎて、指を伝い艶々とした川を作り始めている。彼女が拭おうとしない以上、床や服を汚すまで幾許の猶予もないだろう。
 やれやれ仕方がない。ふぅと小さく息を吐き、細い手首をそっと掴むと唇を寄せてやる。

 それは随分と妙な感覚だった。例えば、敗者を這いつくばらせた状況で靴や汚物を舐めろと強要するのは路地裏ではそれなりによくある光景だったし、他人事でもなかった。けれど、このなまえという女はそういった類の嗜虐を好む女ではなかったと認識していて──つまり何というか、今この場においては、この行為に屈辱以外の感情を見出してもいい気がした。そしてふと、まるで傷付いた飼い主を宥める犬のようだと想像して、すぐにそんな己に呆れを返す。この自分が、そんな良いモノになれる筈が無いってのに。

 肩より高く上げられた指先が流す量など知れている。傷口から溢れているとろりとした血を舐め取って、指の縁を乾いた唇でなぞっていく。たったこれだけで、量にすればほんの数滴に過ぎない血液がたちまち口内を染め上げてしまう。これがただの鉄の味ではなく、血液の味と匂いだということはよく知っていた。
 自分のものとは異なる人間の味にただただ言いようの無い違和感が込み上げてくる。指の股に溜まったそれが甲へと流れ落ちてしまう寸前で掬い取るように吸ったところで、じゅるりと下品な音が響いた。とっさに唇を剥がして下を向きたくなったが、ここまでやってしまえばもうどうにでもなれと踏み止まる。
 そして指先に戻り、意を決して口に含むと全て舐め取るように吸い付いた。歯を当てたら痛いだろうから、なるべく気を付けて、上顎と舌で女の細い指を丹念に包み込む。指の腹に僅かに付いていたチョコレートの風味は感じた途端に掻き消えてしまった。
 こうして指を預けている相手が「このまま力を入れれば噛み切れてしまうのではないか」と物騒なことを考えていることに、この女は気付いているのだろうか。いや、気が付いているならば、想像出来るならば、そもそもこんな真似を許しはしない筈だから──そんなことを考えながら行為に耽る時点で、なまえではなく自分の方にこそ彼女を試す狡猾さが潜んでいるのだと自覚してしまう。どこまで許されるのか。どこから拒絶されるのか。全てを台無しにする勢いで、そのラインを確かめてみたいと今もどこかで考えてしまっている。そんな度胸など本当は微塵も無いというのに。
 溢れる血液だけではなく元を狙うように尖らせた舌で傷口を撫で上げると、さすがに不快だったのか口腔内で爪がぴくりと跳ねた。しまった、やり過ぎたか。慌てて目を開けて窺ったものの、予想外なまでに満足気な眼差しがそこにあり却ってぎょっとしてしまう。


「美味しかった?」
「……いや、うまいかって言われると、なんていうか、その」
「あれ、好きなのはこういうのじゃなかった?」
「え? ああ、なんだ。そういう意味だったのか。せっかくだけどよ、肉は肉で血は血だろ。あんただって、ステーキは喜んで食っても牛の血を一気飲みしてえとは思わねェだろ?」
「なるほど、そりゃまあ……そうかも」


 残念だなと漏らすなまえの見つめる先、唇からするりと離れて行った指先にはもう赤は認められず、ただ皮がぱっくりと割れているだけだ。女の形の良い爪がぬらりと光を反射した。なぜかと考えるまでも無く、自分のせいだと解ってしまう。自分が汚した跡をまざまざと見せつけられるようで、居た堪れなさに押し潰されそうになる。けれど彼女は男の唾液で濡れた指を汚らわしいと拭うことはせず、いとも簡単に自身の唇を重ねてしまった。
 てらてらと残る唾液をなぞるように、ぱっくりと割れた傷を確かめるように。唇からちろちろと覗く舌が自分の跡をたどる様は、"居た堪れない"どころでは済まない。けれど幸か不幸か、見ないふりをしていた欲が解き放たれる前に緩みかけた檻に鍵をかけ直してくれるのもまた彼女だった。
「えーと……なまえ……?」
「本当に残念。自信があったのになー……美味しくなかったんだ?」
「いや、そんな恨めしそうな顔されても。えっと、つまり、おまえ的には"うまい"ってことか」
「そうそう。さすがにわざわざ自傷こそしないけど、結構甘くて美味しいもんだって自画自賛してたんだけどなー」
 けど、こんなの勧められるのってあなたしかいないしさぁ。
 残念そうに言われたところで今回ばかりは絶句するしかない。
 自分としては、いざ鑑みるまでもなく(さすがに部位や年齢によって硬い柔らかいといったこだわりはあったものの)どちらかと言えば"獲物を狩って食べる"という悪食自体に価値を置いていたのであり、純粋にその肉自体が美味いか不味いかという観点は持ち合わせていなかった気がする。
 他の食材と比べて格別美味いとか、人肉でなければいけない味わいだとか、まして自分の血液が他人のそれより甘いかどうかなんて、そんなことを考えた覚えはまるでない。そんなわけで、飛び出たのは至って素直な感想だった。
「……つくづく思うが、おまえって自己愛に事欠かねーよなぁ」
「なにそれ、なんかバカにしてるでしょ。別にいいわよーだ。もう金輪際、これっぽっちも分けてなんてあげないんだから」
「え。あー……その、悪い。次は味わってみるから、な?」
 別に"次"などなくても何の問題もない筈なのに、敢えて機嫌をとるような物言いをする理由は自分でも解らなかった。けれど舌をぐるりと回したところでなまえの味はもう残っていなくて、そのことを惜しく感じてしまったのだ。
 尤も、蛇口を捻ろうとしている手首を掴み、その傷口に無理やり歯を立てれば新しい血は幾らでも流れるだろう。けれど、そういうこととはきっと違う。そうして傷付けて口にしたところで、きっと自分にはやはり、甘美だなんて感じられないだろうから。

「仕方ないなぁ。でもそんなしょっちゅう怪我したくはないから、期待はしないでね」

 解りやすく機嫌を直したなまえに促されるまま、彼女が置いた包丁を握る。
 思えばチョコレートを切るなんて初めてだ。そのままでも驚く程に甘い菓子なのに、わざわざ更に手間をかける程の価値がその飲み物にはあるのだろうか。そんなに美味いものなのかと尋ねると、コーヒー豆に手を伸ばしていた彼女がくすりと笑って振り返った。
 けれど本当はもう、その唇が何を言おうが関係なかった。すぐそこの、当たり前のようにふたつ並べられたマグカップだけで充分だった。


「まあ、答え合わせは飲んでのお楽しみってことで」


(2016.09.29)(タイトル:いえども)
(一緒にと思ってもらえるだけで嬉しかった)
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