「難しい顔してるな」
夜更けのcube。
リビングのソファでくつろぐ亮介の目の前。
ダイニングテーブルで台本を読んでいた僕は、亮介の言葉に視線を上げた。
小さくため息をつくと、また台本に視線を落とす。
「次のクールで主演するドラマなんだけど全然役作り出来てないんだ。それで少し、煮詰まってる」
「へぇ……」
少しだけ早口だったのは、僕が神経質になっている証拠。
新曲のレコーディング、ライブのリハーサル、バラエティの撮影、雑誌のインタビュー、PVの撮影。
膨大な仕事を前に、僕のキャパシティがオーバーしかけてるのが、正直なところかもしれない。
嬉しい悲鳴、なんていうけれど、本当に悲鳴をあげたい時には、僕はきっと喉が枯れて声が出ないと思う。今、BUCKSはそれくらい忙しい。
亮介はソファから立ち上がってキッチンへ立つと、何か作業をし始めた。
テレビもつけていないせいか、控えめに鳴る金属音だが、しかしやけに耳につく。
しばらくもしない内に、テーブルの上にコトン、と置かれたネイビーブルーのマグカップがひとつ。
…僕のマグカップだ。
視界の隅に現れたそれを見て、僕は眼鏡を外す。珈琲の揺れるマグカップを持ってきてくれた亮介に、微笑みかけた。
「…いいのに」
「知ってるか?BUCKSで一番美味い珈琲淹れるメンバーが誰か」
「知ってるよ。その道のプロなんじゃないかって思う瞬間が何度もあるからね」
そう応えると、亮介は嬉しそうに笑った。僕の隣に腰掛けると、眼鏡の隣に置いた台本をとって、ぱらぱらと斜め読みをしている。僕はその様子を横目に、温かい珈琲に口を付けた。
台本のページをめくる音が聞こえる。
心地いい。
「どういうドラマなんだ?今度のは」
「人当たりの良い優しいお医者様が、実は連続殺人鬼だったっていう…サスペンスかな」
「おぉ、怖」
「主人公は僕をイメージしたらしい。…夏さんに言われたよ」
このドラマのオファーを持ってきた夏さんが、台本を手に僕に投げかけた言葉は。
「冷血なアンタにぴったりね、だってさ」
亮介の読んでいる台本を受け取ろうと、手を伸ばす。
台本を閉じた亮介の、その表情が少しだけ綻んでいるのを認めて、僕は首を傾げた。
「なに?」
「いや…俺の知ってるお前は、冷血とは程遠いのに、と思ってな」
「端から見れば僕なんてそんなものなんだよ、きっと」
何てことはないよ、といった風に肩を竦めて笑ってみせたけれど。
本当は、完璧なアイドルでいることに、少し疲れていたりもする。疲弊を通り越して磨耗しているといっていい。僕は仕事のたび、それこそ命を擦り減らしていると思っている。
誰もが求める『BUCKS』の『神名瑞樹』でいることは、意外なほどに神経を使う。
そんな呪縛から解き放たれる瞬間があるとしたら、それは。
亮介とのこの瞬間、なのかもしれない。
「お前は意外とアツい奴だと思ってるけどな。俺は」
「亮介にしか見せてない一面なのかもよ、それ」
「それならそれで嬉しい」
「…ダメだよ亮介。誰か帰ってきたら…」
「それはその時考える…」
亮介の手が、台本をとる僕の手に触れる。手の甲を亮介の指先がなぞる。くすぐったい。この状態じゃ本読みなんて出来やしない。
一度手の甲に視線を落としてから亮介を見上げて、暗に手に触れることを止めるよう訴えてみたけれど、亮介がわざと知らん顔をしているのがよく分かる。
口許が微かに笑っている。
こうなるともう、亮介は引かない。
ふと、思い至った。
「亮介しか知らない僕の一面って…他にどんな一面があるのかな?」
「……言っていいのかどうか」
「…言って。なに?」
亮介がその唇を僕の耳元に寄せる。
「 」
そして囁かれた言葉に、僕はすぐさま反論した。
「それはっ…、亮介が…!」
「俺が?」
「…性格悪くなったね」
「違う。少しオトナになったんだ」
触れられている左手を引こうとするけれど、亮介の右手がその手をぎゅっとつかんで離さない。
こういう時の亮介は、仕事中の一歩引いたようなところは全くなくて、すごく押しが強かったりするから驚く。逆であるべきだ、と話したことはあったけど、当の本人はどこ吹く風。
…観念するしかない。
「……手。離してくれないと台本が読めないよ」
「離す気がないと言ったら?」
「抵抗するよ。僕なりに」
「へぇ。そっちの方が面白そうだな」
「抵抗してみろ」と言外に告げた亮介の、不意を打つ。
顔のすぐ横にあった亮介の唇に、自分の唇を重ねた。
掠めた、と言ってもいいほどの微妙な触れ方だったけれど。
それでも、効果はあったみたいだ。
…逆の効果が。
「今のは……挑発か?」
「ちがうよ、んっ…、」
頬に手を添えられると、亮介から、もっと深く口づけされた。
分厚い舌が蠢めく感覚に、背中がぞくりと粟立つ。つい反応してしまう。
……このままじゃ、いけない。
そう思って亮介の身体を押し戻そうとしたと、ほぼ同時だった。
「たっだいまー!!」
バタン、とドアが開くとがしたと思ったら、ドタバタとリビングに現れたのは湊だった。
湊の声が聞こえたとほぼ同時に、僕と亮介はお互いの体を離した。それは瞬く間の速さだった。
「お、おかえり、湊…」
「んあー疲れたー…って、あれ?亮介どしたの眉間。すっげーシワってる」
「……なんでもない」
リビングに入った湊は、ジャケットをソファに脱ぎ捨てると。そのままドサリと腰を下ろして、すっかりくつろぎモードだ。
そそくさと席を立った亮介に、湊が何事かと首を傾げる。
その理由が分かっている僕は、少しだけ口元に笑みを浮かべて、キッチンに戻る亮介の背中を見送った。
「なんだよー、なんか機嫌悪くないー?亮介ー」
「大丈夫、機嫌は悪くないよ。湊、今日はどうだった?新番組の撮影だっけ」
「そう!クイズ番組!サイアクだよ、不正解だしたら顔面にパイぶつけられたりしてさー!目ん中入って超イテーの!」
僕は湊の話に耳を傾けながら、カウンターキッチンの向こう側にいる、亮介にちらりと視線を送った。
すると、亮介は僕の視線に気づいて。フッ、とその口元に笑みを浮かべると、手元の空のコーヒーメーカーに視線を落とした。
(キスの続きは、また今度)
なんとなく、お互いがそう思っているような気がして。
それがくすぐったくて。
その綻んだ表情を隠すように、僕は自分の台本に視線を落とした。
「なっちゃんなんて、パイ顔面にくらうくらいじゃ全然オイシくない、とか言うしさー…って、聞いてる?」
「うん。聞いてる。聞いてるよ」
「顔面にパイなんて、今時そんな演出する番組あるんだな」
「だろ!?だろ!?しかもスタッフ、初回だから張り切りましたとか言っててさ!俺ゲストなのにパイ塗れだよ!?窒息するかと思ったっつの!!」
マイペースに、オーバーリアクション気味に。今日あった出来事を身振り手振りで語る湊。
台本に目を通しながら、それを笑顔で聞いている僕。
手を動かしながら、時折、湊の話に相づちを打つ亮介。
cubeの時間は、穏やかに流れていく。
今が何時かなんて、時間はあまり関係ない。
夜更けによくある、僕たちの日常の風景。
僕は、台本から少し視線を外して、テーブルの上にあるネイビブルーのマグカップを見つめた。
珈琲の揺れるそれは、僕の穏やかな幸せの象徴、そのものかもしれないと。
そう思ったのだった。
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