17.指からすり抜ける
体温計の数字を見た途端、くらりとしだす意識。
「…っ」
「おっと!」
危うく体温計を落としそうになって、赤髪の先生が慌ててそれを受ける。片目をつぶって、やれやれと言わんばかりに、ふう。とため息を吐いて、それを胸ポケットにしまった。
「少し横になれ。内科の開き、調べてくる」
「リハビリは…」
「無理に決まってんだろ…ほら、こっちにベッドあるから」
「…………」
結局わたしは、リハビリ室に設置してある簡易ベッドを借りることになった。
朝より酷くなった気がする…。
動くたびにずくずくと痛む頭、ぎしぎしと軋む全身をなんとか支えながら身体を横たえ、ほっとして身体中の力を抜いて目を瞑る。赤髪の先生が、氷枕を敷き、上掛けをかけてくれた。
「気ぃ、付かなかったのか?飯食う時、喉が痛えとか、着替えの時寒気したとか」
「食べて、ないです…」
「はぁ!?…朝飯も食ってねぇのか。無理して来るこたあねぇだろう!」
「………っ」
朝食も摂らず体調も良くないのに、無理してここへ来たことに声を荒らげられ、びっりしてびくんと肩がはねた。そのわたしの様子を見て、先生は気まずそうに頭を掻いて、わたしから少し目をそらした。
「あー、悪い。…俺は原田だ」
「はらだ、せんせい…?」
「ああ、ここの内科医だ。腕まくってくれ」
「…はい。」
名乗っていなかったことに気づいた先生は、話の方向を変えるために椅子に座り直して点滴の用意を始めた。手に持った管を指で数度弾いて流れを確認し、わたしの腕に針を挿す。チクリとした感触が、熱で過敏になっているせいで余計に痛く感じる。
「簡単な栄養剤だ。これが終わったら今日は帰ってゆっくり休め」
「…かえ、る…?」
「何驚いてんだ、周りの連中に移されても困るだけだからな。病人は、帰って寝てろ」
「………病人…」
「ああ、栄養あるもん摂って、元気になってからまた来りゃいいだろ」
「……」
やっと外に出られたのに…帰るなんて…。
また、あの部屋に戻される。これじゃ入院していた頃のほうが、まだマシだった気がする…。
はい。と返事しなければならないのに…、熱のせいで弱気になってしまったのか、思わず本音が出てしまった。
「いや…だ」
「なんでだ、旦那待ってるんだろ?」
「ちがいます、…そんなんじゃ…」
「……少し、眠れ」
旦那なんかじゃない。そう言いたいのに、大きな手で撫でられ、瞼がどんどん重くなってくる。じわじわと侵食してくる眠気に抗えない。消毒液の匂いと、いろいろな人がせわしなく行き交うパタパタという足音が心地よく意識をとろけさせていく…。
もう…このまま目が覚めなければいいのに…
あそこに戻る位なら。
薄れ行く視界の先に映った自分の指先さえも、もう消えてしまえばいいのに…。
「……………」
「眠っちまったのか」
「ああ。連れがいたよな。連絡してくる」
「左之、あの連れは…」
「新八、余所の事情に踏み込むな。俺達じゃ何もできねぇよ…」
初日のリハビリは散々なものに終わった。
あのあと原田先生の計らいにより、内科を受信させてもらい、風邪という診断を下された。処方された薬を受け取って、待合室のベンチに腰掛けていれば、なぜだかにこやかな笑顔をたたえながら、総司さんがやってきた。
「やっぱりね。朝、リハビリ室に連れて行く時に、熱いと思ったんだ」
「………っ!」
なんてことを笑顔で言うんだろう…!
熱による汗じゃないものが、背中を伝った気がした…。
朦朧とした頭が恐怖で支配される、なのに思い通りに動かない身体。今、ここで総司さんの家へ戻されたら、もうお終いなんじゃないかという錯覚が襲いかかる。
「さあ、無理は禁物ってわかったでしょ?帰るよ」
「…………っ」
ぐっ、とまた今朝のように腕を掴まれて立たされる。ふらふらとしながらびっこを引いて、わたしはまた総司さんの家という檻へと向かう車の中に押し込まれていった。
「寒いでしょ?これ」
「………」
シートに身を預け、頭の痛さと寒気に顔をしかめていれば、ふわりと毛布が掛けられる。真新しいそれは、昨日わたしが見たものじゃなかった。
「病院から連絡きたから。買っておいたんだ。家に付くまでの辛抱だからね?…まあ、インフルエンザじゃなくて良かった…」
「………」
あんな信じられない言葉を吐いた人の言動とは思えない言葉…。
もう、優しい言葉すら、受け入れられない…。自分の頭に鳴り続けた警鐘は本物だったんだ。それが分かったところで、今はどうしたらいいかわからない。
何にも縋れない頼れない状況。
だけどわたしの中で鳴り響く警告音と意識の中にある恐怖はきっと本物だ。今はそれだけを信じていよう。
「寝ちゃってもいいよ」
「………い、いい、え…」
「強情だなぁ」
ずくずくと重たい頭は徐々に冷静な思考力を奪っていく。
だけど、もう目を開けているのも辛くて、閉じたくなんてないけれど、襲い来る眠気にまた抗えなくなった。顔を見られるのだけは嫌だ、と俯いて顔を背けた。
とにかく風邪を治さないと。そして一日でも走るための脚を取り戻すんだ…。
─────
2016/03/07
→
ALICE+