10.沈黙

*大学生になって家庭教師のアルバイトを始めてから、一君がホテル代を出すようになっていた。

私のほうがフルタイムで働いているのだから、といくら私が言っても、“これは俺の役目だ”と何時間延長しようとも一君が支払っていた。

だから、一君の呼び出しを拒むこともできず甘んじて彼との関係を続け、深めた。

ホテルはだいたい休憩と宿泊で料金が違う。
一君とはいつも、休憩という名目で、ホテルに入る

高校を出てすぐに働きに出た私は、現役大学生が勤める家庭教師の時給の相場なんて知らないけれど、一君は頭がいいからきっと高いんだろうな、と思う程に時間を気にせず私を抱く。

いっそ宿泊にしたほうがいいんじゃないか?と思うんだけれど、必ず一君は私と朝を迎えることなく、セックスが終わると乱暴ではないものの、早く帰る事を私に促す。

男の人は用が済めばこういうものなんだ、というのは頭で分かってはいたけれど。
あからさま過ぎる温度差が時々辛い時もある。

今日みたいな日は、特に。

そして重ねる様に一君の沈黙が身に刺さる。

総司くんがつけたキスマークは、一君が上書きして更に色濃くなっていて、あちこちに付けられた歯型は、一君の怒りを表しているようで、鬱血した所々が私を責め立てる。


「………」
「………」


シャツのボタンを止めながら数々の痕を隠し、チラリと一君の顔を見る。
遠くから表情を伺ってみても、俯き加減で長く垂れた前髪がそれをひた隠していた。

いつもより取られた距離が、更に悲しくて心が苦しいくて居た堪れない。

私と総司くんがそういう関係を持っている訳じゃないけれど、完全に一君は私の事を誤解している。

これは誤解なの、とそう声をかければ良いだけの事なのに、私の喉は震える事なく、声を出すことができない。


「…………」


声をかけることを諦め、敗れたストッキングをゴミ箱に放り投げ、いつ伝線してもいいように持っていた予備のストッキングに脚を通した。

視線で“支度はできたのか?”と一君は私に投げかける。

私も無言でカバンを手に取って視線で“出来た、”と投げかけた。

これもいつもの、いつもの二人の暗黙の了解。

そういえば聞こえはいいけれど、一君と私はそういった甘い関係じゃない、と諦めが創りだした無言の了承だ。


「………っ」


穿たれ責め立てられた身体はいまだ悲鳴を上げて節々を軋ませる。
腰掛けたベッドに手を付いて立ち上がれば、一君はそれと同時に私に背を向けてドアの方へと歩いて行った。

ピッピッと電子音を鳴らしながら液晶画面をタップし、自動精算機で一君は精算を済ませる。
一万円札と千円札を精算機は次々と吸い込んでいった。


「………」
「………」


この光景だけは、見慣れたくない姿。

お釣りの小銭を受け取ってポケットにつっこみ私に視線もよこさず一君はドアノブに手をかけた。

ドアが閉まる前に私も出ないと、と慌てて脚を前に出そうとして縺れ、あっ!と思った時はもう遅く、私は床に手をついて派手に転んでしまった。


「…いた………」


転んだ時に派手に鞄の中身をぶちまけてしまった。
手帳や財布、ポーチや携帯がこぼれ出て、コロコロとボールペンが虚しく転がっていった。

情けない自分の姿にとうとうこらえていたものが溢れ、視界が滲む。
それでも部屋を出なくてはならないから、這って荷物を掻き集めた。


「あ……」


転がったボールペンを拾おうと目線を先に上げると、一君がボールペンを拾い上げていた。

床に這いつくばった私を見詰め、ボールペンに視線を落としてもう一度私を見る。

ふ、と小さく息を吐いて私の方へ一君が歩いてきた。

今のみっともない姿も顔も見られたくないのに、一君はそんな私の気持ちに構う事無く私の腕を引く。
立たせるだけだと思い込んでいたら、予想外にその力は強く、驚いている間に私は一君に抱き上げられた。


「歩けないか…?」
「…………っ」


さっきまで、凍るほどの冷たさを纏っていた一君が、私を抱き上げて包む。

茨のような空気の中でいきなり優しく包まれ、私は混乱で涙腺を崩壊させてしまった。

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