11.亀裂

*ぽろりと落ちた涙を、一君が指で掬った。

堰を切ったものは止められず、私は俯いて顔を背け、一君の指から逃れてただただ涙を流した。


“怖かった、苦しかった、辛かった、痛かった”


そして何より悲しかった。


そう、言いたいのに言えない。
言って、どうしてあんなに乱暴したか聞くことができたら、どんなに良いだろう。

一君と私が甘い関係なんかじゃないのはわかっている。
だけどこれまでの事を思い返して、一君が私の事を少しでも求めてくれていたんじゃないか?とそんな気持ちもあったのに…、そんなのは完全に私の勘違いで。


悲しさと一緒に虚しさが溢れて止まらない


割り切っていたつもり。
私達の間に、そんな甘い空気なんて存在しなかった事を。

何度頭でそうだ、と言い聞かせても…、
もう私は一君の事を好きになってしまっていた。

だけど一君は違った。

私という玩具が他の人に触られた、という怒りで私をめちゃくちゃに抱いた。


その事に気づいてしまった。


それだけに、余計に今日は悲しかった。

心は冷えて、ただ、ただ悲しくて。

流れる涙を止められなくて、私はそのまま動けなくなった。


「………、」


ふう、と頭上で溜め息が聞こえた。


「………」


いつまでも泣きやまない私に呆れたのか、痺れを切らせたのか、それともその両方なのか分からない。
一君は私の背を一度擦ってから手を引いて部屋を出る。
ドアの前で一度止まった。


「ここで待っていろ」


そう私に言い残して携帯を取り出し、どこかへ電話をかけながら私と距離を取った。

どこに掛けているんだろう。
聞かれたくない電話でもかけているの?

そんな簡単な事さえも、私は一君に聞くことが出来ない。

壁に凭れて乱れた鞄の中身を直しながら、ハンカチで涙を拭って一君を待つ。

大した時間もかからず、一君がポケットに携帯をしまいながら戻って来て、私の手を取って言った。


「今タクシーを呼んだ、乗って行け」


(行け…?)


一君は…?


声が出ない。
喉が詰まって、苦しくて声が出せない。

“一君は乗っていかないの…?”

聞いたら拒絶の言葉しか返ってこない気がして、怖くて聞く事が出来なくて…声が出せない…。

私は何も一君に問うことが出来ない…。

ホテルから出て、入口前で待っていると、小さいブレーキの音を軋ませて、私達の前にタクシ―がゆっくりと停まった。

ドアがそっと開けられ、せめてもの抵抗で一君の手を握り返したけれども、そんなものは虚しく終わり簡単に振り解かれる。
背を押されシートに押し込まれ


「………っ」


一君の方へ振り返ったと同時に、無情にもドアは音を立てて閉められた。


「………っ」


一君と私を繋ぐ間の空間が断ち切られた気がして、これが最後になってしまいそうで、怖くてたまらない。

予め紙に行き先をかいていたのか、一君は小さなメモと一万円札を運転手さんに渡して、タクシーから身体を離す。


「釣りは不要だ。出してくれ」
「………ッ」


完全に拒絶された気がして、早鐘を打つ心臓が更に握りつぶされたようで苦しくなっていく。


一君を呼びたいのに、今ならまだ間に合うのに…


…身体は強張って動こうとしない。


そんな私に構う事無く、運転手の人はアクセルを踏んで一君との距離を広げていった。


「………」


振り返って一君を見たけれど、既に背を向けて駅へと歩き出して行ってしまっていた。

いつもなら、一緒に歩いて帰る道なのに…、手を繋ぐでもない、楽しく会話をする訳でない。

一緒に歩くだけでも私は満たされていた。
それは私の独り善がりだっだのだけれど…。


また視界に涙の幕が張って滲む。
鞄からそっとハンカチを出して、目元を抑え堪えるけれど涙は止まらない。
バックミラー越しに運転手の人が怪訝な顔をしているのが見えたけれど、もうそんなことも構っていられない。


「………っ」


一君が何を考えているか分からない。
どうしてこんなに辛いのか。

乱暴にされた身体よりも、今は心が痛い。

求めないようにしていたくせに、心のどこかで求めて勝手に期待して…


辛い、苦しい。


一君…、私どうすればいいの?この膨らんでしまった気持ちはどうしたらいいの?

分からなくて苦しくて

ホテルから二駅分の道を、私はひたすら泣き続きた。

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