水泳部の部室近くの焼却炉の前。ポツンと置かれたベンチに寝そべりながら、最近買い換えたと騒いでいたスマートフォンの画面を睨むこの人は、今何を考えているのか。


「…名字先輩」
「あ、玲於くんじゃん。おはよー。」


呆れたように彼女の名前を呼べば、上半身を起こして俺を確認した後、そのまま座り直して隣をポンポンと叩いた。そして、素直にそこに腰を下ろす俺。僅かばかりの沈黙。先に口を開いたのは、当たり前に俺ではなくて。


「今、何の時間?」
「数学、です」
「あー。私ね、こう見えて理数系超だめなんだよね」
「察してます」


ひどーい、なんて、俺の腕を軽くグーパンチ。全然痛くないそこを摩り、何をするんだという気持ちを込めて先輩を見れば、なぁに、なんて笑っていて。可愛いと思ってしまった自分が、なんだか凄く馬鹿みたいに思えて恥ずかしくて。


「卒業前なのに、こんなとこでサボってていいんですか」


そう言葉にすれば、自分で言っておきながらなかなかのダメージを受けた。もうすぐ名字先輩はこの学校を去る。そうすれば、俺らの接点なんてなくなって、ああこんな後輩もいたよね、なんて思い出にされてしまうんだ。名字先輩の中から、俺の存在がなくなってしまうのが、なんというか、すごく、辛い。


「どうせ、もう授業なんて大したことやらないからね。出ても仕方ないんだよ。それにね、」
「…それに?」
「顔も見れなくなっちゃうんだー、って思うと悲しくなっちゃうでしょ?」


ああ、そうだ。彼女の中には、そもそも俺なんて存在していなくて。顔が見れなくて悲しいのも、声が聞けなくて寂しいのも、なんの理由もなく会える今がなくなるのがどうしようもなく怖いのも、対象は違えど、全部、彼女も同じで。


「…俺なら、いつだって会えますよ」


ぱちぱちと瞬きが2回。丸い大きな目が、ゆっくりと優しく細まる。


「受験生はね、すっごく忙しいんだよ。」


残酷な言葉。伸びてきた手が、ふわりと俺の頭を撫でた。その手を掴んで引き寄せて、俺だけを見ろ、なんてそんな台詞言えるわけがない。タイミング良く鳴り響いたチャイムに、じゃあねと立ち上がった名字先輩。




サヨナラ、愛しい人


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