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がちゃりと玄関が開く音が聞こえたのは知っていた。
仕事が終わって帰って来たであろう名前と会うのは約1週間振りだ。
名前には『出張』と言って出かけたが、実際は『遠征』で、僕もつい先ほど帰ってきたばかりなのだが、不思議とここに帰って来ると妙に安心する。
これで名前がリビングの扉から『おかえりなさい!』と笑顔を向けてくれれば言う事なしなのだが、何故か名前の気配は未だ玄関に留まったままだ。


「コナツさーん…」


やけに弱々しい声が玄関から響いてくる。
その声は確かに名前で間違いないのだが、何かあったのだろうかとラグから腰を上げて玄関へ繋がる扉を開けた。
そして絶句。

ぽたりぽたりと髪や服から水を滴らしている名前は申し訳なさそうに「脱衣所からタオルとって来てくれませんか?」と告げた。
先ほどまで外は晴れていたはずだ。
バスタオルを取りに戻りながらチラリと窓の外を見ると、晴れにも関わらずバケツを引っくり返したような土砂降りの雨が降っていた。
なるほど、この天気雨に濡れてしまったというわけか。
納得しながらバスタオルを持って玄関に戻ると、名前はたっぷりと水分を含んだ上着や靴下を脱いでいるところで、とりあえず早く拭かないと風邪をひいてしまうかもしれないと、自分より随分とか弱い体に持っていたバスタオルをかけてあげる。


「すみません、ありがとうございます。」


未だポタリと水滴は落ち、玄関に軽く水溜りができていた。


「今日天気晴れって予報だったもんね。」

「そうなんです。だから傘持っていってなくて。しかもお店出てから降りだしたので参りました。」


バスタオルで髪を拭いていく名前は体にピッタリと張り付く衣服が気持ち悪いのかやけに気にしている様子で、大丈夫かと声をかければ大丈夫だと返された。
よく見れば体に張り付く衣服のせいで女性らしい体のラインが浮き彫りになっている。
括れた腰、膨らんだ胸、濡れた髪は艶やかさが増し、…と思ったところで無理矢理彼女から目線を外した。
これはマズイ。


「あー…お風呂、沸かしておいたから入っておいでよ。」

「そうします。ごめんなさい、コナツさんだって早く休みたいですよね。出張から帰ってきて疲れてるのに。」

「いや、全然いいから。」


その格好のままでいられるほうが辛いとは言えず、不自然に目線を外したまま名前の気配が脱衣所の方へ消えたのを感じ取ると、脱力するようにその場にしゃがみこんだ。


「……たまったもんじゃないよなぁ…」


付き合っていない女性と一緒に住むのはたまに辛い時がある。
全く異性として意識していなければ問題ないのだろうけれど、元より自分は名前とお近づきになりたいという下心込みでシェアし始めたのだからこれがもう非常に辛い。

理性を保つために数回頭を振って、名前が脱衣所まで滴らせた水分を拭くために立ち上がった。




***




「はぁーいいお湯でした。」


ホカホカホクホクしながら名前が脱衣所から出てきた。
すでにパジャマに身を包んだ彼女の可愛らしい事。
ルームシェアを始めた頃はそれこそパジャマ一つ見られるだけで恥ずかしそうにしていたけれど、最近は慣れたようだ。


「廊下、拭いておいたから。ちゃんと温まってきた?」

「バッチリです!お疲れのところご迷惑おかけしました。」

「いいって。気にしてない。名前だって仕事してきたんだから一緒でしょ。」

「出張どこまで行ったんですか?私第1区からあまり出たことないので他の区がどんなところなのかあまり知らないんですよね。」


ドライヤーで手早く髪を乾かす名前に「4区まで行ってきたよ。」と告げてからはたと気付く。
出張と言った手前、お土産の一つくらいあったほうがよかったのではないだろうか。
遠征だとリビドザイルが着く場所はすでに戦地で、お土産を買うところなんて一切ない。
むしろあったらびっくりだ。


「…お土産買おうかと思ったんだけど、忙しくって…、」

「え、いいですよ!!そんな気を使ってもらわなくても!コナツさんが事故もなく帰ってきただけでいいんです。遅くなりましたけどおかえりなさい。」


ドライヤーで渇いた髪からふわりと香った甘いシャンプーの香りが鼻を擽りながら、チクリと胸が痛んだ。

嘘を吐けば吐くほど嘘が増えていく。
一つ吐いた嘘がバレないように嘘に嘘を重ねて、いつか矛盾が生じるかもしれない。
いつか、バレるかもしれない。


「そうだ、今夜はスパゲティにしようと思ってるんです。お腹空いてませんか?」

「もうペコペコだよ。そうだ、この前買ってきたお酒飲もうか。」


何だか今日は飲みたい気分かもしれない。
そしたら少しは気分も上がるだろう。

名前は「お酒!いいですね!ビールは冷やしてますよ!!」と目をキラキラさせてキッチンに駆けていった。
もしかしたら見かけに寄らずお酒が好きなのかもしれない。
ルームシェアを始めて2ヶ月が過ぎたが、また一つ名前のことを知れた気がして、それだけで嬉しくなった。




***



名前はお酒が好きなだけじゃなかった。


「お酒久しぶりです。貯金したいから禁酒してたんですよー。」


また一口、二口とお酒を嚥下した名前を見ながら、自分も久しぶりのお酒を喉に流し込む。
コナツさんの買ってきたお酒だから…と最初こそ遠慮を見せていた名前だったが、すでに2缶空けている。


「何で貯金してるの?」


パスタを頬張って舌鼓を打ちながら問うと、名前は少し赤くなった頬を上げてへらりと力なく笑った。


「自分のお店を持ちたいなって。たくさんたくさんお金がいるので節約してるんですよー。」


初耳だ。
好きで花屋で働いているとは思っていたが、自分の店を持ちたいほど今の職業が好きだとまでは思っていなかった。
名前は一つに盛ってあるスパゲティを自分のお皿によそって、フォークに巻きつけたパスタにぱくりと齧り付いた。
かなりの上機嫌で語尾が伸び始めた様子を見る限り、どうやらもうすでに酔っ払っているようだ。
ビール缶2缶でこの様子だと、お酒は好きでもあまり強そうではない。


「小さい頃からの夢なんです。」

「店に居る時の名前、生き生きしてるもんね。」

「良いコトばかりってわけでもないですけどねー。手は荒れるし、冬は寒いですし。」

「でも名前、仕事から帰って来るといつも花のいい匂いするよ。」


名前のいる家、名前の作ったご飯、それから側に照れくさそうに微笑む名前が居れば文句のつけようがない。
名前が3本目の缶に手を伸ばすのを見ながらそんなことを思う。
今度はチューハイを飲むようで、何がそんなに楽しいのか終始笑っている。
非常に、非常に和む。


「そういえばれすね、ずっとずっと思ってたんですけど、私、どこかれコナツひゃん見らことあるような気がするんれすよね。」


呂律がおかしくなってきた名前が変えた話の内容にドキリとした。
平然を装ってお酒を煽るも、心臓はひどくうるさい。


「名前、呂律回ってないよ。もう飲むのやめたら?」

「平気れす!それより不動産屋さんの前れ会った時にふと思っらんれすけど、気のせいかと思っれ黙ってたんれすよ。会ったことありまふ?」


それが気のせいじゃないんだな。
不動産屋の前で偶然を装って名前に会いに行くまで、花屋に行ったのは友人に手向ける花を買ったあの時一度だけだが、その花屋の向かい側にあるカフェから何度か名前を見ていたり……と言葉にすると今更ながらに自分がストーカーのようだと思ってこの出来事は墓場まで持っていこうと思った。

さて、どうやって話を逸らそうかと考えていると、向かいに座っている名前の頭がスパゲティに突っ込みそうになっていることに気付き、咄嗟に出した右手でその頭を支えれば名前はチューハイを握り締めたまま眠っていた。
酔っているなとは思っていたけれど、まるでスイッチがオフになったかのように急に眠った名前に苦笑して彼女の手からチューハイを取り上げる。

このリビングに寝かせるわけにもいかず、横抱きにしてリビングを出る。
華奢な体は眠っていて、全体重が自分の腕に掛かっているにも関わらず簡単に持ち上げられた。
悪いと思いながらも名前のプライベートルームを開けると、綺麗に整頓された部屋が目に入る。
本棚には花々に関する本が。
その横には数冊の漫画と小説が並んでいた。

名前の香りが立ち込める部屋の片隅に置いてあるベッドに彼女を寝かし、布団をかけると「まら飲めまふー」と呂律の回っていない声が聞こえてきた。
そうか、呂律が回らなくなるのはダウンの前兆なのかと学びながら、名前の赤い頬に手を添える。
熱いくらいの体温が直に伝わり、親指で彼女の唇を撫でた。

彼女の唇から熱っぽい吐息が出ているがそれはアルコールのせいだろう。
しかし、自分の口から漏れる吐息はアルコールのせいじゃないことは確かだった。

開いている名前の唇を割り、人差し指を入れると柔らかい舌に触れる。
覗く赤い舌を見ながら、熱っぽい息を吐き出して足早に部屋を出た。

リビングに散らかっている空き缶や食器をシンクに置いて名前宛に書置きを残すと、上着を引っつかんで早々に家を出る。
ダメだ、今あの家に居られない。
欲望と理性が争うせいで頭がパンクしそうだ。


未だ籠もる自分の中の熱を冷ますために、夜風を浴びながら軍へとつま先を向けた。


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