死には定義がある。
 「死んだこと」の確認のために、それが定められている。具体的に言うと心拍の停止、呼吸の停止、瞳孔の散大。この「死の3兆候」が確認できた際に、人は死ぬ。
 しかしこれらは今や古く、間違いとされている。
 現在新しく定められている定義は、全身の統御を担っている「脳」が、その機能を失ったことが確認されたとき、である。つまり、人工呼吸器によって呼吸し心臓が動いていても、全身を統御する脳の機能がもう駄目だろうと認められた時点で死んだと見なせるということである。
 新しく定められた定義は、社会的な出来事としてポイントを決めるために定義されていると考えて良いだろう。
……分かり難いだろうか。
 まぁ、分からないなら分からないで構わない。とにかく死に対して「人体」を「各部品の集合体」と見る見方が西洋から入った結果、どこかの部品が悪くなったのにそれが取り替え不可能になるから起きる、という見方になってしまったのだ。
 例えるならそう。
 たった1人のミスで、その上司や周りの社員に被害が及ぶ、みたいな。
 眩しい蛍光灯の光の下、パソコンに向かって文字を打ち込んでいた兄者は、深く息を吐き出しながら、猫のように背伸びをした。それから顔を、真っ黒な窓に向ける。
 北のほうに行けばきっちり区画整備され、新築の高層ビルやマンションが何棟も立ち並んでさほど暗くはないのだろうが、未だ整備が行き届いていないこの辺りは、まばらに浮かぶ無言の街頭やビルの光だけを残して、闇に沈み込んでいる。
 いつまでもこうして整備されないのは、交通の便もあまり良くなく、ここいらの整備に力を入れても大きな利益にはならないからだろう。しかしこの地区の夜闇は、建物で埋められた地区と比べると、なんとも物悲しい気分にさせてくる。
 そんな地区の一角、ひっそりと佇むそのビルの周囲には、全くと言っていいほど人通りがない。意図的に避けられているかのように、そこら一帯が静寂に包まれていた。そしてそのビルの3階、左端の窓から、白い光がこぼれ落ちている。とことん世界から隔絶されたようなその一室に、兄者はいた。
 椅子に座ってくるくると回っている兄者は、残業のために1人仕事場に残っていたのだった。同僚の犯したミスによって、彼はオーバーワークを強いられている。
 神経質に貧乏ゆすりをする彼の疲労のパラメータは限界値をとうに超え、もはや仕事に無関係なことしか考えられなくなってしまっていた。自分が打ち込んでいる文字の羅列の意味なんて考えたくない。考えない。彼の瞳孔はすっかり乾いて、パソコンの画面を見ることが拷問に等しいと思えるほど、休息を欲していた。さらに言えば、蛍光灯の白い光が1番鬱陶しい。包丁でも投げつけてガラス管をかち割りたい。いや、待てよ。割る必要はないのか。白い光だからダメなのであって、蛍光灯自体は別段問題はないのか。
 そうだ、色を、目に優しい色にすればいいんだ。
 兄者は手の甲で目を擦り、首を回す。
 目に優しい色。もう正常に機能してくれなくなった彼の思考は、自分の好きな色を脳裏に浮かび上がらせた。
 青は好き。赤も好き。黄色はどうでもいい。緑は少し好き。白は……。
 白は嫌い。
……そうだ、蛍光灯の色を変えるには、ガラス管に塗られた蛍光物質を……。
 兄者は鼻の下にボールペンを押しつけ、尖らせた唇で支えた。どれだけ目をそらしても、視界にチラつく白い光が振りきれなくて、兄者の集中力は着実に削り取られていく。時計の秒針の進む、微かだが確かな音が室内に響き渡る。貧乏ゆすりが激しさを増す。
 いや、しかし。
 今さっき、集中力が削られていくと言ったが、訂正しよう。彼はもはや、集中していない。意識は仕事のことを決して考えないよう、どこか遠くの方へ逃れることにのみ力を注いでいた。さらに言えば、仕事から逃れようとしていた意識は、これからどうするかについての答えなんて既に出していた。コインを宙に投げたその刹那に、裏か表のどちらが出るのかを無理やり決めるように、彼の意識は、はっきりとした結論を導き出していた。では、その結論とは何か。
「……帰ろう」
 職務放棄である。
 兄者の、その血族特有の肌色を持った指先がマウスを操り、パソコンのシャットダウンボタンをクリックする。
……だって俺がサボったくらいじゃ大きな損害なんて出ねえし。
 彼は自分の行為を正当化しようと思考を巡らせた。唇で支えたボールペンが、天秤さながらにふらふらと揺れる。
 たしかに、たった1度彼が仕事を片付けずに帰宅したところで、大した被害にはならないだろう。なんせ彼は廃れた地区に立つ中小企業の一社員である。社会人としてはなかなかに職務怠慢な行為ではあるかもしれないが、人間の三大欲求のうちの1つ、睡眠に抗える者なぞ存在しない。断言しよう。
 だから。だから、自分は帰って寝る。仕事はもう、しない。
 これが彼の出した結論である。であればもう帰るだけだ。しかし彼は動かない。下らないことを思考するだけである。ではなぜ彼は、そこから動かないのか。答えは単純だ。
 疲れた思考が「その結論」を出すのは簡単だが、疲れた体がそれを実行するのは、困難を極めていたからである。
 兄者の唇に支えられていたボールペンが、乾いた音を立ててデスクに落ちた。カタカタと転がるボールペンは、今度はデスクから床へと落ちそうになる。兄者は慌ててそれを掴み、勢いに任せてスーツの胸ポケットに突っ込んだ。
 一瞬、胸ポケットに手を突っ込んだ姿勢のまま、兄者の意識が入り口のドアに移る。
……帰るか。
 目を伏せて肘置きに手をついた兄者の視界が、デスクに散らばる細かなゴミに支配される。
 逡巡──ののち、脱力。
 ぐったりと、極限まで力の抜けた体が背もたれに落下した。しかしいかんせん力を抜きすぎた兄者の体は液体のようにずり落ちていく。背もたれに頭を、座面に背中を押し付ける。だが、兄者の長い脚は彼のデスク下の奥の壁に当たってしまう。仕方なしに両足を抱えこんで腹にくっつけると、体育座りで仰向けに寝転んでいるような形になった。
 兄者は目をすっと細める。こんな、24歳の成人男性が座面に体育座りなんてしているところを誰かに見られたら。
 口のすみに笑いがにじむ。まぁ、足音がしたらすぐに体勢を直せばいいだけの話だ。依然問題はない。
 肩をすくめると、延髄に鈍い痛みが走った。人差し指で強く押されているような痛みだ。思わず顔をしかめる。どうやら精神的にも身体的にも疲弊しているようだ。目を上げると、やはり蛍光灯の光が眩しくて、兄者は強く瞳を閉じた。
……なんなんだ、一体。
 今日はやけに白光が気になってしょうがない。逆に、窓の向こうにある街の暗然が堪らなく愛しかった。群青の光を孕んだ夜の闇は、大抵の人間を憂鬱な気持ちにさせるかもしれないが、兄者は違う。蛍光灯の光のせいで今は見えない窓外の街が、街を覆うその穏やかな闇が、今の兄者を癒すのには必要不可欠だった。
 薄い瞼の向こうには、まだ白い光が渦巻いているのだろう。気怠い気持ちのまま、蛍光灯の光を最大限視界に入れないようにして薄目を開く。そして首を伸ばすと、自分の膝越しにデスクの上が見えた。そうするとこれ見よがしに中身を失くした紙コップが自己主張してくる。
 またしても、白。
 深海を閉じ込めたような虹彩を持つ兄者の目が、すっと、切り傷のように細くなる。その細くなった目の奥にある瞳が、彼の腕時計に落ちる。まるで独立した一生物であるかのような動きだった。
 成人男性らしい、節ばった大きな手のひらが紙コップを引っ掴む。ヒョイと足を床について、兄者は事務用イスから立ち上がり、すっかり空になった紙コップを放り投げた。ぺしゃんこの紙コップは美しい弧を描いて、ゴミ箱に吸い込まれていく。それを見届けもせずに、大股でドアの側まで歩いていき、兄者は照明のスイッチを押した。ぷつっと蛍光灯の光が落ちて、部屋が闇に溶ける。兄者は部屋を出た。
 誰もいない室内を、静寂と闇だけが支配する。閑散とした水族館のようだった。窓の外は、月明かりがあるためか室内より幾分か明るく、水槽のような光を放っている。外を走る車のライトが、誰もいなくなった室内に飛び込んで、デスクの上を滑っていった。

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紺青と白光