冷気を放つかのように無機質なコンクリートを潜り抜け、駐車場へと向かう。暗い歩道には申し訳程度の街灯がやはり無言で立っていて、その頼りない光の下を通るときは余計虚しい気持ちになる。光の下に滑り込めば周りは一層深い闇に沈み、闇の中に飛び込めば光だけが取り残されて、後ろの方へと流れていく。
 だがしかし、兄者にとって白光は目に痛いだけの有害な存在であり、反対に街を覆う影は自分を和ませてくれる有益な存在だった。身体的にも精神的にも、ただむやみに明るいだけの光に価値があるとは思えない。
 ふと兄者が顔を上げると、ちょうど駐車場が見えた。尻ポケットから車のキーを取り出し、人差し指に引っ掛けてくるくると回す。上機嫌に鼻歌を歌う彼の頭に、周囲に他の人がいるかもしれないだなんて考えは存在していない。細かなことを考えられなくなるほど疲れていたと言っていいだろう。
 革靴の硬い音を鳴らして自分の車に歩み寄り、キーのボタンを押す。ガチャ、と聞き慣れた音が暗い駐車場に響く。
 兄者はなだれ込むようにして運転席に乗り込んだ。革張りの、しっとりとした柔らかいシートは、兄者の心と体を癒してくれる。何度座ってもこの感触が堪らない。体の力を抜いて大きく息を吐く。しかしふと目を上げ、ハッと息を飲んだ兄者は、慌ててフロントガラスの向こうを睨みつけた。まだ気を抜いてはいけなかった。
……ここの駐車場、すげぇ面倒なんだよなぁ。
 廃れたロードサイド沿いの小さな中小企業のビル。そしてそこにある駐車場の規模なんてたかが知れていると分かってはいるものの、さすがにこの駐車場の車間スペースは狭すぎやしないだろうか、と兄者は思う。他の社員とは、業務連絡をする以外会話といった会話をしたことがないため、他人の考えは分からないが、さすがにこれは狭い。狭すぎる。
 帰れると思った矢先にこれだよ。兄者は肩をすくめて小さく首を回しながら、ハンドルの付け根右横にある鍵穴にキーを挿し、ブレーキペダルを軽く踏みながらひねった。エンジンのかかる音がして、心地よい振動が兄者の体に伝わってくる。それから感触を確かめるように、ゆっくりとハンドルを握る。ハンドルの感触を楽しみながらも、手のひらに汗が滲むのは止められない。
 車の運転には自信がある。以前、他人よりもずっと得意だと無愛想な友人に話したことがある。その友人は「へー」としか言わなかったものの、しかし実際兄者は運転がうまい。そこらの一般人よりかは遥かに技術がある。だからってどうということはないのだが。
 駐車場には、疎らとはいえちらほらと車が止まっている。しかし運の悪いことに、ちょうど兄者の両隣は車で埋まっている。まぁ、左の青いクーペはいい。なかなかだ、褒めてやってもいいだろう。しかし右の白いセダンの向きが少しズレていて出にくい。停めたの誰だよ。
 ここで並みの人間ならば車体のどこかしらをぶつけるやもしれない。だが兄者は違った。彼はこの状況に対し「いつもより出にくい」と考え、すこし身体を強張らせはしたが、しかし、自分の運転技術に確かな自信を持っていた。そしてその自信には、確かな技術が伴っていた。
 兄者はふぅと息を吐き出して肩の力を抜き、しっかりとハンドルに力を込めた。そうして何度かハンドルを切り返し、スルリと車と車の間を抜ける。手に滲んだ汗は引き潮のように引いていった。
 清々しさに満たされながら、駐車場を出る。あれだけ強張っていた体の力は勝手に緩んでいて、とても心地が良い。そうだ、入り口と出口を分けてくれりゃあ良いのにな。出勤時の混み具合はクソだからなぁ。兄者はニヤニヤと口を歪めながら、ハンドルに寄りかかった。
 国道に入ると、すぐに光が満ちて、辺りが賑やかになった。対向車のヘッドライトが、ひっきりなしに兄者の視界に飛び込んでは、後方に消えていく。兄者はその1つ1つを睨んで、ハンドルを固く握る。まるでそれが絶対に効くおまじないであるかのように、睨んでいれば光が消えると信じているかのように、ずっと睨み続けていた。
 なぜだろう。
 いつの間にか兄者は、落ち着かない気持ちを抱えていた。足元が妙にジリジリして、早く早くと体が急かしてくる。自宅まで十数分の短い道が、今はひどく焦ったく感じられる。
 兄者はちらとバックミラーを盗み見た。特に変わったことはない。そのはずなのに。
 貧乏ゆすりが止められない。家に帰らなければ。早く。早く。もっと早く……。
 そこでふと、兄者は考えた。本当に家に帰るべきなんだろうか?自宅の防犯セキュリティは信頼に値する質を誇っているが、なんだか今は、それを軽率に信じすぎているような気がする。まるで、何かに誘導されているみたいじゃないか!
 まてよ。
 少し疲れているのかもしれない。兄者は軽く首を振った。ついでにバックミラーをちらり。何もない。ただ、道の奥の、墨をぶちまけたかのような闇が、無性に気になっていた。
 元来兄者は幽霊や心霊の類を信じるような可愛らしい精神なんてものを持ち合わせているような男ではない。むしろ科学やら理論やらを信じている。なにより、「超常現象」なるものを自分のこの身で実際に体験したことは、この24年間で一度もないのだ。自分で体験したことがない事象を、どうやって信じろというのか?
 兄者は思考した。冷静さを欠くのは、どんな状況であれ、悪い結果に直結する。これは、兄者自身が幾度となく経験して学んだ、紛れもない「真実」だ。
 考えろ。これは単なる疲労による不安なのか、それとも、本当に何者かに追跡されているのか?
 黄色い光が規則的に点滅して、コンクリートの壁面に映る。交差点を左折した。ハンドルを両腕で抱きしめて寄りかかる。父親が我が子に抱擁しているかのようだ。
自宅まであと2分の距離。さて、どうしょうか。兄者はゆっくりと瞬きをした。



 結論から言うと、兄者はすべて杞憂であると判断し、いつも通りの帰宅をした。
「あぁ〜」
 ゾンビさながらの呻き声を漏らしながら、玄関ドアの隣にある照明のスイッチを押す。兄者は、本当に少しだけ、まだあの疑念を捨てきれずにいた。部屋に満ちる黒い闇。その奥には、何もないはずなのに。指に力を入れれば、黒い世界が一気に淡いオレンジ色に切り替わった。
 何もない。
 バスルームのシャンプーボトルの位置が変わっていないかも確かめたし、キッチンにある古新聞入れの中身が減っていないかも入念に調べた。リビングのリモコンの位置、コンセントの中身、マットの毛。
 寝室のサイドボードの引き出しを調べ終えたところで、兄者はハッと顔を上げた。いつもは鋭い目が、少しだけ丸くなって見える。
「まるで怯えてるみたいじゃねえか……」
 ぽつり。呟いた言葉が布団に吸い込まれる。いい加減馬鹿らしくなってきた。こんなに調べても何もないのに、何かに怯えるだなんて。しかも、この自分が。
「くだらねぇ……さっさと準備しねぇと」
 疑うべき対象がいない以上、するべきなことは1つだ。いつも通り過ごす、それだけ。
 寝室を出た兄者は、すぐさまバスルームに滑り込んだ。汗で汚れた体を、ぬるいシャワーで洗ってやる。
 体は毎日洗わないといけない、と兄者は考えている。ヒトの全身の細胞はおよそ2時間で新しい細胞に切り替わるため、体はこまめに洗わなければ体表に死んだ細胞がこびりついたままとなり、非常に汚いからだ。古い細胞と新しい細胞。それらが、生と死を無限かつ同時に繰り返している。
 生と死。
 赤ん坊のうちに死んでしまうものを、ヒトは短すぎると嘆いている。しかし、それは他のニンゲンと比較しているからそう感じるのであって、例えば性交後の精子に比べれば、長生きをしていると言えるのではないか。逆に100歳生きたニンゲンを「長寿」と言うが、理論上5億年生きるとされるベニクラゲに比べれば、短命だと言える。比較対象によって、観念はいくらでも変えられる。「生死」についてもそうだ。
 自分自身の体の中では常に細胞レベルの生死が繰り返されているのに、どうしてヒトは生を喜び、死を嘆くのか。
 これは「自分の唾をコップ一杯分貯めて、『飲め』と言われたら拒否する」とか、「自分の腸にある排泄物は不快に感じることはないのに、いざ外に出したものは『汚い』と感じる」だとかと同じ現象なのではないか……。
 硬くて冷たい鏡が自分の額に当たったところで、兄者はハッと顔を上げた。シャワーを浴びながら、居眠りをしていたらしい。
 自分が思うよりずっと疲れているのかもしれない。
シャワーを止める。びしょ濡れの前髪を掻き上げ、それから犬猫のようにブルブルとからだを揺らし、バスルームを後にした。
 そして、リビングのソファに体を横たえた。くだらないお笑い番組をぼんやりと眺める兄者の頭には、白いバスタオルが乗ったままだ。ぽた、と深海の底のような色の髪の毛の先から、水滴が落ちた。ソファに滲む。
 ぼんやり、朦朧とした意識の中で、まだ飯食ってねえ、とか、髪乾かさないと寝癖が、だとか考えていた。しかし兄者は、もう指一本も動かせる気がしなかった。
 少し寒い。何かを体にかけたい。でも体は動かない。
 ゆったりと瞼が落ちてくる。それでも、玄関の方の暗がりが、どうしても気になっていた。



 光の届かない泥の中に落ちた。
 暗い暗い視界の中で、怖いな、なんて素直に考えている自分がいた。遠くから、誰かの泣き声が、聞こえていた。

「大丈夫ですか」

 ふと、視界の端に、白い何かがチラついた。不思議と、嫌な気持ちは、しなかった。

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泥中に夜