はたと瞳を開いた。瞬間、兄者のつま先から頭のてっぺんに至るまで、色濃い違和感が駆け巡った。見慣れない天井の木目や、身を預けているソファの不慣れな感触が、薄膜のようにぴったりと兄者の全身を包み込んだためである。
 凄まじい勢いで跳ね起きた兄者の体から何かが剥がれ落ちた。目を落とすと、いかにも手触りの良さそうなモヘア生地のブランケットがローテーブルとソファの間に崩れ落ちている。またも見慣れない薄灰色のそれを見つめていると、僅かに早まっていた心臓の鼓動が落ち着いていくのが分かった。
「目が覚めましたか」
 今度はゆっくりと、至極緩慢な動作で、ローテーブルを挟んで向き合うように据えられたソファへと顔を向けた。待ち構えていたかのように、海色の瞳は完璧なまでに無邪気な笑いの気配を滲ませている。
「やっぱりまだ少し寝ぼけてますかね」
 そう言ったリアンは行儀良くそこに腰掛け、今の今まで読書を嗜んでいたようだった。茶色く痛んだ巨大な古書を僅かに開いた膝の上にどっしりと乗せ、陶器のような手と華奢な腕で支えている。年のわりに幼く見える少年と分厚く難解そうな本の組み合わせは、なんともアンバランスに見えた。
 兄者は何も答えずに、気怠い印象を与える伏せ気味な目をさらに細めて、じっとりとリアンを見つめた。そこからは一切感情を読み取ることはできないが、落ち着きを取り戻しかけた彼の鼓動は再び乱れ始めていた。兄者は自分自身がこの得体の知れない相手の目の前で───ブランケットを掛けられたのにも気付かないだなんて───意識を手放していたという事実に内心動揺していた。
 いや、これは夢だ。夢のはずなのだ。だから自分が居眠りしようがなんだろうが、身の危険なんてあるはずがない……。
 そう思い直そうとして、しかし兄者の内心では、形容しがたい何かによる焦燥が否定しようもないほどにはっきりと燻っていた。
 咎めるような視線をその身に受けつつ、リアンは首をかしげた。「なにか困りごとでもありますか?」
 その仕草がなんともわざとらしいものに兄者は思えた。そしてやはり何も言わずに兄者は再びソファへと体を沈める。困りごとといえば、確かにそうなのだが、言ったところでそれを解消する術は兄者にはないし、リアンはその困りごとの解消に付き合ってみせるほどお人好しではない。
 兄者は、ジリジリと焦げつく焦燥感と同時に、水を含んだ真綿ように重く、獲物を締め上げる蛇のようにしつこく纏わり付いてくる殺意と破壊衝動も持て余していた。殺したい、壊したい、あの細い首の中にすらりと通っているであろう頸椎の折れる音が聴きたい。あの細い指の関節を、第1関節から第3関節まで、丁寧に一カ所ずつ外側へ折り曲げてやったら、あれはどんな叫び声をあげるのだろう。体を預けているこの質の悪いソファを切り刻んで中身をぶちまけてやりたい。あの時あれの言葉に耳を貸さず、あのまま拳を振り下ろしていたら、きっとあれが時間をかけて集めたであろう書物の数々は空を舞い、紙片が散らばり、棚は小気味良い音を立てて崩れていただろう。
───あれ自体を殴ったときと同じように、煙となってすり抜けなければの話だが。
「何か食べられないものや嫌いなものはありますか?」
 兄者の瞳が声のする方にのびた。その視線には一切の躊躇いなく不快な色が絡んでいる。その感情を一身に受けながら、リアンもまた一切の躊躇いなく愉快そうな微笑みを携えてみせる。兄者は舌打ちした。
「そろそろお腹が空いてきてはいませんか?」
「減ってねぇ。減ったとしてもお前の作ったものなんざ食わねぇ」
 何かを腹に入れた方が良いというのはもちろんその通りだと兄者は思う。しかし得体の知れない相手の作った料理に手をつけるほど、彼は警戒を手放すつもりはなかった。まして先ほどの異様な光景を目にした後ではなおさらそうせざるを得ないだろう。
……これは私の夢でもあるんですよ。
 忌々しい声が脳裏で翻る。その言葉に意味があるはずはない。これはあくまで兄者自身の夢であって、この夢に出てはくるものの実際には存在しないキャラクターが発した台詞に過ぎない。
「本当ですか? かなり長い間お休みになってたんですよ。 本当はお腹が空いて空いて仕方がないんじゃありませんか?」
 煩いガキだ。いくら殺したくても、煙になってしまうのだからどうしようもない。兄者はまた舌打ちしようとして───はっと息を止めた。
「なんだと?」
 突然上体を起こして、その勢いのままに身を乗り出した彼に、ようやくリアンは驚いた様子を見せた。しかし兄者は気にとめることなく小柄な少年へとさらに距離を詰めた。「今なんて言った?」
「え?」リアンは僅かに身をそらして後ろに退きつつ口元に笑いの形を作った。「えっと、お腹が空いて仕方がないんじゃないかと」
「そこじゃねぇ。 お前……俺が長い間寝てたって、そう言ったよな」
 リアンの顔に当惑の色が漂い始める。えぇ、そうですけど……と顎を引きながら、その海色の瞳が兄者の顔を窺って揺れた。対して兄者は怒りとも驚きともつかない不思議な表情をしてついにはソファから立ち上がり顔を回し始めた。リアンの顔もまた彼の動きを追ってみるものの、読めない男の動きに、少年は隠すことなく困惑の声を上げた。
「どうかしたんですか?」
 兄者はリアンのことなど一切合切忘れ去ったかのようにくるくると部屋中を見渡して、そしてすぐにある一点でぴたりと動きを止めた。
「あの……?」
 口の端を引き攣らせて、リアンが言った。
「時計が、なにか……?」
 動きを止めた兄者の視線は、壁に掛かった何の変哲もない掛け時計へと縫い付けられている。リアンは兄者の横顔とその時計とを交互に見比べて、やはり何も分からずに小さく首を傾けた。
「おい」兄者は時計から視線をそらさずに声だけを投げつけた。「俺がここに来たのは何時だ」
「8時20分頃です」
 兄者の顔がようやくリアンの方を向いた。その瞳にありありと疑いの色が貼り付いているのが見えて、リアンは無意識のうちに苦々しく顔を歪めていた。
「嘘は」
「ついてません。 つくメリットがないでしょう」
 リアンは自分で自分の声が思いのほか冷たいことに内心驚いたが、兄者はそれ以上は何も言わず、再び──今度は幾分か緩慢な動きで時計に目を滑らせて、そして小さく首を振った。
 掛け時計の短針は12を、長針は1の辺りにさしかかっている。兄者はリアンの発言と目の前の光景を踏まえて導き出された事実に、今度こそはっきりと動揺していた。
「俺は……3時間近く、寝こけてたのか」
 兄者が力なく呟いた。自分で自分が信じられない。3時間……得体の知れない空間の中で、素性も分からない、異能を持っているらしい相手と相対しているということを踏まえれば、あまりにも長すぎる時間だ。夢の中で3時間が経過する、というのもいささか奇妙な表現だが、それでもこの夢におけるれっきとした事実なのだ。そして通常の彼であれば考えるまでもなくそんな行動に出ることはなかっただろう。
 いくら夢の中とはいえ、ここまで気が抜けてしまうとは。しばしの沈黙の後、兄者はふらりと気怠げな動作でソファの前に回り込むと、ドサリと体を落として背もたれに体を預けて天を仰いだ。
「おい」
 ふいに声だけがこちらに飛んできた。リアンは何も言わずに兄者の動きを見守っていたが、ほんの少し背筋を伸ばして「はい、なんでしょう」と平静な声で応答した。
「きのこ類は入れるな」
 あまりにも簡潔な要求だった。一瞬何のことだか分からずにリアンは寝ぼけたような瞳を瞬かせる。と、少しして曝け出された青い喉元が再度動いた。「肉を多めにしろ」
 そこでやっとリアンの顔に明かりが灯った。年の割に幼い容貌の少年の瞳に、一層あどけない笑みが浮ぶ。なんとも無邪気な表情ではあったが、兄者は決してそちらを見ることなく舌打ちした。

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水槽に似たなにか