差し出された白魚のような手のひらにチラリと目を落とす。
 まるで本当に存在する人物であるかのような、不自然なほどに具体的な自己紹介と、育ちの良さが窺える恭しい所作がなんとも鼻につく。これは俺の夢なのに、俺の意思や思考から外れて、1つの自立した生命なのだと声高に主張しているかのようだ。
 そう、これは夢だ。所詮生きる上で発声する一ノイズに過ぎない。今回の夢の舞台が、ただこのキャラクターの仕事場である、というだけなのだ。夢の主人である自分よりも、陽炎のように刹那的な存在であるこの少年の方がこの空間について詳しいのかと思うと、やはりどうしようもなくチリチリと不快感が焦げ付く。これでは際限がない。兄者は燻る思考を隅へと押しやって、手のひらから視線を外して再度部屋を見渡した。
 始めはこの空間の設定に合わせてやろうと思ったが、すでに兄者の気持ちは180度変化を遂げていた。これは自分の夢なのだ。それなのにダラダラと茶番に付き合っているのでは、せっかく見ることができた馬鹿馬鹿しいほど平和な夢が勿体ない。
 もはや兄者の心の内には、欠片ほども協調するという選択肢が残されていなかった。自己開示も、ましてや常人のように和やかに握手など、もう兄者には微塵もする気がない。
 座り心地の悪い、おそらく安物であろうちゃちな黒革のソファから体を引き剥がして、目についたドアへと歩を進める。付き合ってられるか。青黒い水晶のような兄者の瞳が据わっている。こんな生温い夢、好き勝手に引っ掻き回したところで、なんの支障もないだろう。
「なぜ俺たちのような生物が睡眠中に夢を見るのか、という問にはまだ確かな答えが確立されていない」
 兄者は一方的に口を開いた。大抵コミュニケーションをするために言葉は発されるが、今兄者が吐き散らした言葉は始めから最後まで兄者の、兄者による、兄者のためのものだった。
「有力な説は『活動中に得た情報を整理するため』だそうだ。 しかし……今回のこの夢は奇妙だ。 なぜって、俺はお前のことなんてまったく記憶にないし、この空間にも見覚えがない」
 ドアノブをなんの躊躇もなく捻る。兄者はこの夢の主人だが、すでにこの部屋の主人の風格すらも纏っていた。
「しかしこの説に則って考えるなら、そうだな……俺がこれまで得た記憶の断片を継ぎ合わせた存在として、今この俺の夢にお前がでてきているとすれば、なんとなく頷ける」
 サラサラと言葉を垂れ流す兄者の視界に、壁という壁を埋め尽くす本が飛び込んでくる。今にも倒れてきそうな本棚を通り越して部屋の奥の方に目を流せば、こじんまりとした作業机が窓を背にして佇んでいる。
「けどなんとなくムカつくから、今からここをぶっ壊すことにする」
 あまりにも突拍子のない意思表明に対し、背後の子供は一言も言葉を発さない。仮に発したとしても、おそらく兄者は耳を貸さないのだろう。
 鬱陶しいほど几帳面に敷き詰められた本棚のうち、1番手前の本棚に拳を振り上げる。夢の中で自由に暴れ回るなんて、一体どれほど爽快なのだろう。どれだけ殺しても、どれだけ壊しても、誰にも見つからず、何にも咎められない。なんて愉快なのだろう。拳の着地点になんだかよく分からない言語が刻まれた古ぼけた分厚い本を見つけたが、兄者は躊躇なく拳を振り下ろした。
「胡蝶の夢、って知ってますか」
 ピタリ。まさしく時が止まったという他ない。それほど完璧に、その部屋の全ての動きが凍り付いた。兄者の拳は凄まじい速さで本棚目がけて飛んでいたが、それを止めたのもまた彼の、常人には持ち得ない驚異的な身体能力と反射神経だった。
 拳を下ろして、今度は兄者が黙り込み、そしてゆっくりと振り返った。ずっとおしのようにだんまりを決め込んでいたくせに、やっと口を開いたかと思えばあまりにも頓狂な言葉を投げ込んできたそれへと、視線を縫い付ける。
「海を隔てた東の国にかつて存在したという、ある思想家の説話です」
 そう続けた少年は、依然として黒革のソファに腰を据えていた。姿勢や、座っている位置、能面のように完璧な笑みも、寸分変わらずそのままだ。しかし蛍光灯の光を跳ね返して鈍く光るその白髪の下、無造作に切り捨ててから伸ばしたであろうざんばらの前髪の奥に、凪いだ海のように静まり返った2つの瞳を捉えて、兄者は無意識のうちに自身の左手を内ポケットへと滑らせていた。
 ……どこを見てる。
 確かに、2人の視線と視線はひたりと結びついている。それは確かなはずなのに、兄者には少年の目に映っている物が自分ではない何かであるような気がしてならなかった。自分の瞳を通して、自分の網膜に焼き付いた挙げ句、今この瞬間も己の背後にぴったりと貼り付いて取れなくなってしまった何もかもを、自分の気付かぬうちに掬い取ってしまったような、遙かな双眼。
 とてもじゃないが17の小僧にできる瞳ではない。未だかつてこれほどまでに不快感を煽られる瞳があっただろうか。
 兄者は、自分に絡みつく衝動に任せてそれを上着から引っ張り出そうとして、そしてはっと目を見開いた。
「思想家はある日夢を見たんだそうです。 それは、1匹の蝶になって、楽しく、心の赴くままに羽ばたく夢でした」
 薄らと青い兄者の左手が彼の上着の内側で慌ただしく蠢く。音にもならない呻き声を彼が上げると、同様の色をした首の、浮きあがった喉仏がぐっと持ち上がる。
「我を忘れて羽ばたいていた思想家ですが、はっと目を覚ましたそのとき、自分が何者であったかを思い出します」
 吞気な声が続く。自分の体をバタバタとまさぐっていた手を止めて、兄者は色濃い殺意をたたえた紺碧の瞳を少年の笑みに投げつける。
 文字通り肌身離さず持ち歩いていた数多の武器が、愛用のナイフ一本に至るまで、まるで煙にでもなったかのようにことごとく懐から姿を消していたのだ。兄者は自分の記憶を遡り、そしてすぐさま1つの結論に辿りついた。
「クソガキ……」兄者は低く唸るように言った。「俺のエモノを、どこへやった」
 不愉快な能面が、ほんの僅かに笑みを深める。
「目を覚ましたあと、思想家は考えました。 『人間である自分が夢で胡蝶になったのか、それとも自分は本当は胡蝶で、いまは人間になっている夢を見ているのか?』」
 兄者はつかつかと少年の前まで来ると、先ほど本棚に向けたのと寸分違わない心待ちで拳を振り上げた。言うまでもなく、少年のその芸術品じみた微笑みに向かってである。
 目にもとまらぬ速さで兄者の拳は振り下ろされた。が、しかし。
「そして……夢だとか現実だとかは知的生命体の『知』が生み出した結果であり、思想家はそれを『ただの見せかけに過ぎない』と言ったそうです」
 振り下ろされた拳は、少年の左目の辺りをすり抜けて、空を切った。
「あなたはこれを自分の夢だと思っているみたいですけど」
 少年の微笑みが、あどけなさを滲ませたものに変わる。
「これは私の夢でもあるんですよ」
 笑った瞳の奥に、無数の星が揺らめいているのを、兄者は見つけた。

 拳の周りには、這うように薄らと白い煙が揺らめいている。その煙は目の前の少年───間違いなく、ただの、普通のニンゲン───の顔の左部分から湧き出しているように見えた。拳には、意識しなければ分からないほど僅かな温度が纏わり付いているのみで、血液や眼球などは付着しておらず、なんとも奇妙な状態だった。
 ほんの僅かな間、兄者は拳を突き出した体勢のまま呆けていたが、すぐにはっと気を取り直して数歩後方へと飛び退いた。
「夢だと言った手前ですが、これが夢だと言い切れる証拠は何一つありません。 そもそも今が夢か現実かなんて、誰にも証明できないですし」
 軽率な発言でした、と少年が頷く。ふわりと揺れた白銀の頭髪がきらりと光る。その顔の左部分は何事もなかったように元通りだ。漏れ出ていた白煙もいつの間にか霧散している。
 兄者は見えない何かから引っぱられるかのように、あるいは押し戻されるかのように、じりじりと後ろへ退いた。目の前にいるこのニンゲンによく似た何かに、兄者は全身の神経を向けて、そっと目を細めた。
「質問を無視してしまい申し訳ありませんでした。 エモノ……あなたの武器をどこへやってしまったかは、私には分かりません」
 形の良い眉を片方ぴくりと持ち上げて、兄者は少年の言葉を待つ。
「我々の夢にそんな物騒な物は必要ない……ということなのではないですかね」
「……夢とは言い切れねぇんじゃなかったのか」
 ハッキリとした切れ味を持った兄者の言葉が投げ込まれる。少年は寝ぼけたような瞳をころりと丸めて、そしてわざとらしく肩をすくめた。「親しみやすい言葉を使った方が良いと思っただけです」
 今度は一層強く瞳を細めて、兄者は少年を睨みつけた。ほんのさっきまでこちらが主導を握っていたはずなのに、今では自分のペースまでもが崩されている。ピリピリと張り詰めた全身の神経に、不信感と、そしてやはり色濃いままの不快感が浮き上がってくる。分からないことが多すぎる。それに加え、この少年の勿体ぶった余裕綽々ですと言わんばかりの口ぶりである。兄者が苛立つのも無理はなかった。
「物盗りをしようにも、最初からあなたは武器や危険物はおろか財布や金目の物すら持ってなかったですし」
「……」
「大丈夫、何も盗ってませんから」
 そう言いつつ、さも嘘であるかのようにニヤッと白い歯を見せた少年に、兄者はほんの僅かに肩の力を抜いた。彼は内心段々と白けてきていた。やたらと気を張っている自分がなんだか滑稽に思えてくるほどに。
「……はぁ」
 大きく息を吐いて、とうとう兄者は全身の力を抜いて、丁度横に来ていた黒革のソファに身を投げ出した。ばふっと鈍い音が弾ける。
「私にもよく分からないんですよ。 ほんの少し休憩しようと思って瞳を閉じたら、向かいのソファが軋んだ音を立てて……目を開けたらあなたが寝転がっていたんです。 不思議ですよね」
 なぜか上ずった声で話を始めた少年に何も答えず、兄者は仰向けになると頭の下で腕を組み、全くソファに収まりきる気配のないすらりと長い脚を投げ出して組むと、ぼんやり木製の天井を見上げて、音もなく息を吐いた。
「そう言えば、あなたの肌の色、私が昔旅した街の壁面の色にそっくりです。 とても綺麗」
「うるせぇなお前」
 本心からの言葉を吐き捨てて兄者は目を閉じた。もう全てどうでも良くなってしまった。遠くの方で憎たらしい子供がなにか言っている気配がするが、兄者はやはり黙り込んで無視を決め込んだ。ふっと息を吐いて、深く吸い込むと、なんとなく懐かしく思える香りが、鼻孔の奥で翻った。

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見せかけの双極