笑顔
いつの間に、絆されてしまったのだろうか。それとも、自分の個性が知らぬ間に自分自身へと効果を発揮していたというのだろうか。
まもなく“約束”の日が訪れる。その約束は、今もなお心を占める彼との約束ではなかった。
「鋭児郎……ごめんね。」
ひっそりと呟いた言葉は、夜の闇に溶けて消えていった。残ったのは、枕を濡らす涙だけだった。
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「あの、烈怒頼雄斗さんですよね!」
本当は聞かなくても知っている。彼に接触することが今日の目的なのだから。
「えっと……?」
「い、いきなりすみません……。ずっと憧れてて、本物だって思ったら追いかけずにはいられなくて。」
敵あるところにヒーローあり。しかし、ヒーローのほとんどは世に知られているが、敵は世に知られていないやつらが星の数ほどいる。
私もそんな1人なのだろう。表だって動くの久しぶりだ。ボスに命じられた。個性を活用してのスパイ活動。
ヒーロー側の計画を、横流しするのが目的だが、事を急いては仕損じるとの言葉を胸に今回の件は長期任務なのだ。
ゆっくりとじわじわヒーローを侵食していく。
彼はその足掛けに選ばれただけだった。
「実は昔、一度助けてもらったことがあって……って、覚えてないですよね。でもそのときからずっと烈怒頼雄斗さんのことが忘れられなくて……よかったら今度一緒に食事とか、行ってもらえないですかね?」
個性を使って、言葉を紡ぐ。うまくかかってくれたようで、彼は私の言葉を信じている。
個性:信用。よっぽど私のことを疑っていない限り、この程度の嘘は真実として彼の頭にインプットされる。今ここで初めてあった私のことを、一度助けた、と。
私のことを覚えさせて、約束を一度でも取り付ければこちらのものだった。見知らぬ女から、知り合いへ。知り合いから、友人へ。
時々帰り道を歩く彼と偶然会ったフリをして、家にあがりこんで、少し無防備な姿をさらしながら個性で好意をそこかしこにばら撒けば、彼の意識を私に向けるのは簡単だった。
けれど、存外彼は真面目な男だったようで、どれだけ近付いても手を出してくることはなかった。
個性を使って、ターゲットの男を落としていくことは初めてではなかったが、男は単純で手が出せる相手だとわかった途端襲ってくることも多かった。
いつもよりも慎重に事を運んではいたが、真摯に私に向き合ってくれる彼を個性で既に恋人同士なのだと、インプットさせる気にならなかった。
どうせ“約束”の日まで、まだまだあるのだ。これくらい遊んだってかまわないだろう。
それにあまり個性を使って情報を与えすぎると、どこから綻びが生まれるかわからない。そう言い訳をして、何度目かの彼の家へとお邪魔した。
「なぁ、名前。」
「なぁに?」
「あ、のさ……。」
いつになく真剣な表情の彼が目の前にいた。その先に紡がれる言葉はわかっていて、返事も決まっているのに、彼の緊張が伝わってくるのか、ドキドキと鼓動が高鳴っていた。
「俺と、付き合って、ほしい。ちゃんと公表できるまで、あんまり外でデートとか……出来ないかもしれないけど、名前のこと俺が幸せにしたい。」
「え……、嬉しい……!」
無意識に口から出ていた。個性を使うべきだったと気付いたときには既に彼の腕の中に私はいて、とても嬉しそうな笑顔を浮かべた彼が目に焼きついた。
個性を使わずとも、信じてしまうほど彼が私を信じているのか、それとも私が本心から口にしてしまったのか、今でもその答えはわからないままだ。
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