はじめてのおつかい


 長い長い散歩から、夕飯のために帰宅する。家の鍵はあいており、どうやら凌がバイトから帰る方が早かったらしい。彼は家で早めの夕食を食べて、夜食を食べてバーへ向かうのである。
 日傘を玄関に置いてリビングに入ると、丁度夕食を並べているところだった。

「おかえり、ただいま」
「ただいま、おかえり。手を洗っておけよー」
「はーい」

 生活環境が整いつつある橙茉家は、少しずつ食事が豪勢になっている。ご飯と一品だったのが、今や汁物と小鉢もつく。
 本日の夕飯は、ご飯とカレイの煮付けとだし巻き玉子にすまし汁。凌は料理も一通りできるのだ。
 くんくん鼻をならしながらダイニングにつくが、一人前しか用意されていない。小盛りのご飯を見ると明らかなように、錦の食事しか並んでいなかった。

「凌は?もう食べてたの?」
「少しな。悪い、部屋で寝てくる」

 凌は申し訳なさそうに眉を下げながら、二階の自室へと向かった。

「…………いただきます」

 錦は子供用の短い箸を綺麗に使いながら、暖かいご飯を咀嚼する。
 黙々と。悶々と。
 凌は、何か落ち込むことがあったのだろうか。気に障ることをしただろうか。ストレスを溜め込んでいたのだろうか。短気で強引な友人や、放っておくと死んでいそうな友人と、遭遇でもしたのだろうか。
 時間をかけて完食し、キッチンへ片付ける。いくつかある踏み台の一つに上り、皿をシンクに置いた。少し悩んで、いつも凌がしているように洗っていく。小さい体では少々難儀だが、無事に完遂した。
 バイトに行く前は至って普段通りだった。が、米神をおさえる仕草をしていたことを思い出す。そういえば、先ほどは顔色が悪かったような。
 錦は芝居じみた動作で手を叩いた。

「……あ、熱があるのかしら」

 体調不良はともかく、病気はあんまりにも己と縁遠い。錦はやっと凌の様子に合点がいった。
 そうっと階段を上って、そうっと凌の部屋をのぞく。息を殺しているので、ベッドにちかづいても凌は目覚めない。
 アラームをかけているのだろう、枕元には携帯が置いてある。眼鏡はデスクに置いてあった。
 起こすのは忍びないが、額に手を当ててみる。熱があるのは確定だった。

「っ!錦か……」
「熱があるのね。薬は?」
「飲んでる……。悪い、今は寝かせてくれ」

 錦は携帯を持って部屋を出た。固定電話がないので、この携帯は半ば共用と認識されており、錦もパスコードは知っている。リビングに戻って、バーのオーナーの携帯に電話をかけた。

『はい、佐伯です』
「橙茉です。パパ、具合が悪いようなの。お休みをもらってもいいかしら?」
『あ、え?橙茉さんの娘さん……?』
「そうよ。パパには秘密で電話しているの。パパは熱があるから、しっかり休んでほしいのだけれど」
『そうか、そうか。いつもよく働いてもらってるからね、いいよ、今日はパパを休ませてあげて』
「ありがとう」

 聞こえる笑い声に錦も笑顔で礼を言う。ついでにアラームをきって、ダイニングテーブルに置いておく。
 さて。

「熱ね……。人間は脆いから」

 錦は再び凌の部屋に入ると、財布を拝借して家を出た。すっかり顔馴染みになっているパン屋に向かい、掃除をしていた店主の妻に声をかける。

「こんにちは」
「あら錦ちゃん、こんにちは。一人なの?お父さんは?」
「今日はパン耳を買いに来たのではないのよ。教えてほしいことがあって」
「おばちゃんでよければ、何でも聞いて」
「パパ、熱があるの。薬は飲んだようなのだけれど、あとは何が必要かしら?」
「橙茉さん大丈夫?最近寒いからねえ」
「今は寝ているわ」
「……冷えピタと、スポーツドリンクもあるといいかも。果物も定番ね」

 ただ情報収集だけのつもりが、バナナ二本とリンゴを一つ持たせてくれる。錦は丁寧にお辞儀をして礼をいうと、助言通りに近くのドラッグストアへ移動する。

「少しいいかしら?」

 商品整理をしていた若い男性店員に声をかける。話し方からは想像できない幼女が一人でいたために少し困惑したらしいが、膝をおって視線を合わせてくれる。

「冷えピタ?とスポーツドリンクをいただきたいの」
「おつかいか?偉いなあ」
「パパの看病をするのよ」
「そっかそっか。よし、こっちだよ」

 バナナとリンゴと、冷却シートにスポーツドリンク。四歳児が持つには難しい荷物に店員は困った顔をしたが、錦は問題ないと首を振る。大きいものはかさばるので確かに厄介だが、重さに関しては心配いらないのだった。
 ひとまとめになった袋を抱えて、ドラッグストアをでる。果物の甘い香りを楽しみながら帰路を急ぐ。
 ダイニングテーブルに荷物を置くと、冷却シートとスポーツドリンクを持って凌の部屋に向かう。携帯は預かったまま、代わりにドリンクを置いておく。
 凌は相変わらずよく眠っている。前髪をよけていると、億劫そうに目を開いた。

「あー……いまなんじだ……」
「さあね。凌はしっかり休むこと」
「バイトに行かなっ、つめ……っ!?」
「着替えも出しておくから、動けるなら着替えてしまいなさい」
「おかあさん……」
「なあに?」
「……母さんだったな」
「そうね」

 冷却シートを貼ると覚醒したようだが、すぐにまぶたがおりはじめる。睡魔に逆らおうとしているのか低く唸るので、錦は汗で湿った髪を撫でた。

「体調崩すとか……気が抜けてるなあ……。いつもは、薬飲んだだけで片付けてるのに、すげーだるい」
「わたくしがいるのに、気を張る必要はないわ。ここは、わたくしたちの城なのよ?」
「はは、城とか似合いすぎ……。あー……俺、こんなとこで寝てていいはずないのにな……」

 力が入っている瞼を手で覆うと、ほどなくして寝息が聞こえてくる。眠ったのを確認してから、そっと目尻にキスをした。


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