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 ボトル入りのミネラルウォーターに口をつけ、気が済むまで喉を動かす。しばらくぶりに飲む冷えた水は、衰弱した体に染みわたっていった。人体の必須要素が補給され、徐々に頭もクリアになっていく。
 口を離すと、ミネラルウォーターは半分程度まで減っている。風呂上りの一杯を楽しむ社会人のように一息ついて、キャップをしっかり閉じた。無造作に置かれていた眼鏡をかけると、疲れ切っていた思考回路が活動を再開する。
 江戸川コナンは、ヒビの入った眼鏡で、自分の置かれた環境を見回した。
 座っているのは、シングルサイズのベッド。少々カビの匂いがするので、この部屋の主はよほど怠惰か、滅多にここを利用しないのだろう。サイドテーブルやチェスト等、煩雑に扱っているようには見えないのでおそらく後者。外は静かだ。カーテンの隙間から陽光が差し込んでいる。
 うろうろと視線を動かして、ふと気になった点と言えばトルソーだ。服はなく、首元に青いリボンを巻いて、透けた外套を着ただけ。否、素材や刺繍を見る限り、ショールというよりもヴェールだろうか。
 私物が放置されている訳でもないが、生活感を感じる部屋。使われている、というのが分かる部屋だ。
 コナンが粗方の観察を終えると、部屋の入口に立っていた水の贈り主が口を開いた。

「元気そうだ」

 コナンは現実逃避を終了すると、改めて、その人物を見つめる。
 彼女はつい最近まで敵対していた組織の幹部であり、今はフリーでよからぬことをしていると聞いている。コナンらの協力組織員が何人も殺され、ついに捕縛できなかった強敵だ。
 装いは黒いが、見慣れたものよりも軽装で武装していないのが丸わかりだった。
 彼女の装い、部屋の雰囲気、そして探偵の勘が告げていた――ここは、ガヴィのセーフハウスの一つなのではないかと。
 しかし、当然ながら招待された覚えはない。元々、連絡を取るような間柄でもない。最初から最後まで、油断ならない敵だった。今も、コナンにとっては要警戒対象だ。
 即逃亡、という選択肢をとらないのは、彼女の前であがくことが無意味だと知っているからである。殺す気なら、コナンが目覚める前に終わっている。少なくとも、現段階で彼女はコナンを害する気はないのだろう。
 むしろ、多分、おそらく、自分は助けられたのだ。




 正確にどのくらい時間が経っているのか、コナンは判断出来ない。なぜこんなことになったのか、心底不思議でたまらないのだ。
 行く先々で事件に遭遇し、犬も歩けばならぬ江戸川歩けば状態である自覚はある。だが、旅行先で首を突っ込んでもいないのに誘拐され銃撃戦に巻き込まれるのは予想外だ。
 件の組織との<戦争>を終えてしばらく。組織の残党に命を狙われることはなくなったが――これはコナンの入院中、自主退院したガヴィが宣言していた通りだった――味方からの刺客に神経を尖らせる羽目になり、退院しても行動は制限されていた。優秀過ぎる頭脳は、協力関係にあった組織に対しても脅威として映ってしまったのである。
 味方からの攻撃に関しては、アポトキシンの解毒薬が完成し、江戸川コナンが姿を消すまでは油断出来ない。
 その薬の完成のめどが立ったのがつい先日のことだった。

「俺は、工藤新一に戻る。江戸川コナンとはお別れだ」
「……私も、灰原哀とはお別れね」
「いいのか」
「このままでいたい……そう思うのも、事実よ。でも、宮野志保は消せないわ。私は、私をちゃんと背負って生きていきたいの」

 江戸川コナンとして得たものは多い。それを全て手放すことに躊躇いがなかったとは言わないが、ずっと健気に待っている幼馴染のためにも、江戸川コナンは<海外の両親の元へ戻る>ことを決意した。相棒たる灰原哀も、宮野志保に戻ることを決めていた。
 今回の欧州旅行は、その江戸川コナン、灰原哀の快気祝いお別れ会を兼ねている。戸籍のない二人のパスポートは、何をどうやったのか、一時的に用意された。
 メンバーは、毛利小五郎と蘭親子、鈴木園子、少年探偵団、阿笠博士。コナンの護衛として、沖矢昴こと赤井秀一が同行していた。他にも、数人が隠れて護衛の任にあたっていた。もろもろの事情を明かしていない毛利親子、園子、子どもたちには、護衛の存在は伏せている。
 思い出作りに、と園子が企画しただけあって、観光は充実していたしホテルも外れはない。事件に遭遇することもなく、楽しい思い出作りは成功――と思われた。
 コナンは街中で、偶然物騒な言葉を耳にし、ちょこっと尾行してみると物騒なものが目に入ってしまい、これからの行動を思案し――誘拐されたのだ。尾行している段階で十分関わっているのだが、コナンからすれば、また首を突っ込む前だった。
 拘束と目隠しをされ、車に放り込まれて怪しい者たちと移動する。その移動が数分ではなく、また揺れが激しくなっていくことから、治安の悪い地域に向かっていることは容易に想像できた。
 滞在先のホテルや観光地は安全な場所なのだが、少し外れると急に物騒になる。日本がとんでもなく平和なだけで、観光地と、あまり近寄りたくない地域が近いというのは珍しくない。そこを突き進んでいくのだ、かつてテロ組織が盛んに活動していたという地域に近づいているのは明らかだった。
 いよいよまずい、と危機感を覚え、武器を持った者たち数人を伸してかつホテルに戻る算段を立てていると、車から降ろされた。そこからはあっという間だった。
 銃声、怒号、破壊音のオンパレードである。動いた拍子に目隠しが取れ、身を隠せたのは本当に幸いだった。そのおかげで被弾することはなかったものの、夢中で逃げるあまり足元が疎かになって転び、なにがしかの爆発の衝撃で意識を失ったのだ。



 そして、気づけば敵の家。ちょっと意味が分からない。
 コナンは頭が痛かった。比喩でもなんでもなく頭痛はしているのだが、別の意味でも頭が痛い。コナンはすでにガヴィに返せないほどの借りがある。その上助けられたとあっては、何をすれば借りはチャラになるというのか。
 大きすぎる借り――それは、完璧な解毒薬の作成に欠かせないアポトキシンのデータである。ガヴィいわく、自分には不要なものである上明かしても何も害はない、ただ借りにする、とのこと。ガヴィの自主退院後、しばらくして何故かキッドの白鳩がデータを運んできた。
 今までのガヴィの所業を思えば、素直に貸しだの借りだのはかなり不服だ。今回のことをどう扱うのかは不明だが、良い予感はない。
 もちろん、ガヴィを見逃すことで借りを返すつもりはない。

「なんで、助けたの」
「恩を売っておこうと」

 予感的中である。助けられたのは事実なのでなんとも言えない。突っかかろうものなら、きっと銃口を向けてこう言うのだ――ならば僕が助けたその命を返せ、と。
 以前ガヴィを助けたのはコナン――ガヴィの命を見逃したのは、FBIの赤井秀一(コナンの味方)になる。しかし、悪を取り締まる側の人間が、命を材料に取引するわけにもいかない。コナンはそういった手段が大嫌いだ。

「あそこにいたのは、何で?」
「滞在してるホテルは?」
「……。××ホテル」
「ちょっと不穏な話を聞いたから。馴染みの武器商人が滞在してたから様子見に」
「武器……。組織の連中も多く武器を使ってたし、あなたが日本で四丁もの銃を仕込めたのも謎だ。あなたは、そういうつながりが多いってこと?」
「そっちには知り合いが多くてね。メンバーは?」
「あなたも知ってる子供たちと、女子高生二人、大人三人」
「ふうん」

 ガヴィは紙袋を投げてよこす。ベッドに着地した拍子に中身が滑り出てくる。子供用のズボンとシャツだ。値札は取ってあるらしいが、皺がついてない上に袋も新しい。コナンの為に調達してきたのだろうか。

「自分の世話は、自分でしろ」

 ガヴィは言い捨てて、寝室のドアを閉めた。静まり返った部屋は、緊迫感とは無縁であった。
 コナンは血と砂で汚れた服をぬいで袋に入れると、新しいものに着替えた。体の汚れは落としておらず不快感はあるが、服を買えただけでも幾分マシだ。ついでに眼鏡のレンズを服の裏で拭いた。
 ミネラルウォーターのボトルも袋に突っこんで持つと、おそるおそる寝室から出る。リビングダイニングになっており、ガヴィは堂々と、ショルダーホルスターに銃を仕込んで上着を羽織っていた。コナンに気付くと少し顔をしかめ、しばしキッチンに引っ込んで濡れタオルを寄越した。

「あ、ありがと……」

 ごしごしと顔を拭いている間に、ガヴィは玄関へと向かっていく。これ、着いていっていいんだよな?と躊躇いがちに続いた。使ったタオルは、また袋に突っこんだ。



 楽しかったはずの旅行に盛り込まれた、<主役の誘拐事件>。ホテルの一室は、重い空気と緊張感で安らげる状態ではなかった。外の明るさとは、とても釣り合わない。
 子供たちは昏い顔で黙り込み、蘭は窓から外を眺めている。園子は携帯を片手にツテを使うが、国外への個人的な支援などしておらず、微々たるものだ。大使館に連絡をして動いてもらってはいるが、状況は芳しくない。小五郎は現地警察に頼ろうにも言葉の壁にぶつかり、苛立ちを隠さない。哀や阿笠や沖矢は、宥め役に回っているが、ふと見せる表情はかたい。
 灰原哀、阿笠博士、沖矢昴は、他の者たちとは違い、コナンがどれほど危険な立場にあるかを知っている。焦燥感はより強かった。
 当初は、哀が持ち込んでいた予備の追跡メガネで、コナンの居場所を見つけて追いかけていた――追いかけていた、のだ。行方が分からなくなったのが昨日の夕方で、その夜、追跡できなくなったのである。コナンの眼鏡や探偵バッジが壊れてしまったのだろう。危険地帯に近づいたこともあり、追跡断念を余儀なくされた。
 沖矢の姿をした赤井は、護衛の者と逐一連絡を取り合い、現地警察とは別ルートで捜索させている。現地警察からすれば、ただ一人の子供が迷子になっただけだが、コナンは重要な頭脳である。あれほどの観察力、機転、洞察力、行動力、推理力、等等備えた人物をここで失う訳にはいかない。
 まさか黒の組織の残党か。彼を脅威をみなした組織の仕業か。現地の人攫いか。赤井は、自分自身が動くことも視野に入れて時計を睨んでいた。
 ――てぃんとん。
 短く安っぽい音色が、よどみ切った空気を切り裂いた。「ルームサービスかしら」上流ホテルに慣れている園子が呟く。が、誰も頼んではいない。状況が状況なので、不信感と警戒心が高まる。
 怯える子供たちを哀が宥め、庇うように阿笠が立つ。蘭と園子も、部屋の奥で身を寄せ合った。小五郎と沖矢がドアへ向かい、息をひそめた。
 ――てぃんとん。
 そうこうしているうちにもう一度、チャイムが押された。沖矢はドアスコープから廊下を確認し、臨戦態勢に入った。がらりと変わった雰囲気に小五郎が怪訝そうにしたが、構っていられない。部屋の奥では哀が身震いしていた。
 廊下には、一人の女が立っていた。腕に袋を下げ、少年を――紛れもなくコナンを抱きかかえている。コナンは眠っているのか、女に体を預けて目を閉じていた。女は両腕がふさがっているが、油断は出来ない。
 沖矢としては――他のFBI捜査官も公安警察も、諸々の協力者もそうだろうが――会いたくはない人物だ。けれど、コナンがいる以上、開けないという選択肢もない。
 ――てぃんとん。
 三度目のチャイムで、沖矢はドアを開けた。チェーンも外し、その姿をしっかりと視認する。

「おそい」
「……ガヴィ」
「ふん」

 ガヴィは不満気そうに言い、沖矢を押しのけて部屋に入ろうとする。「ボウヤを返してくれ」沖矢の声で、赤井の口調で言う。沖矢の後ろでは、コナンの姿を確認した小五郎の発言によって、子どもたちがわきたっていた。

「……わざわざ届けに来たのにその態度?」
「お前が攫ったんじゃないのか」
「当然だろ。なんだっけ、falsche……冤罪?」
「ああ、濡れ衣ともいうな、確か」

 ガヴィはつかつかと入室し、わあわあと群がる子供をあしらい、コナンをソファに下ろした。持っていた袋は、沖矢に向かって放り投げる。
 すわ葬式かという空気が、一気に晴れる。目を開かないコナンに、再び空気が重くなるが、ただ寝ているだけだと分かると安堵から涙を流す。「心配させやがって」「無事でよかった」口々に言葉をかけるが、当の本人はまだ眠ったままだ。
 その喜びの輪から外れているのが二人。

「貸しにするから」
「……仕方ありません。どういう状況だったんですか?」
「怪しいやつらを尾行してたら、捕まったって。東であった爆発の話、知らない?」
「あそこにいたのか……彼は」
「見つけたから、恩売ろうと思って拾ったの。今、僕の都合で眠ってもらってるけど、起きてた時はピンピンしてた。打撲はしてるけど出血は無し、銃創もない。湿布でも貼ってあげたら」
「っはー……あなたの気まぐれに感謝しますよ」
「気持ちだけならいらないよ」

 蘭たちがコナンに気を取られている間に退出するつもりなのだろう、ガヴィはドアへ向かっていた。監視の意味で沖矢が続くと、ドアノブに手をかけたまま、ガヴィが振り返る。

「……手綱は、ちゃんと握ってることね。子供とはいえ、責任は自分で取るべき」
「親切に、どうも」
「思ってもないくせに。甘くって気持ち悪い」

 じゃあねライ。ガヴィはもう意味のないコードネームを口にする。ただ友人の部屋を訪ねただけのように、さらりと部屋を出て行った。
 沖矢は鍵とチェーンをかけて、護衛の者へ手早くメールを送る。皆が大物の登場に息をのんでいることだろう。コナンを届けてくれたとはいえ、とても素直に喜べる心境ではない。彼女には、FBIの捜査官も多く殺されている。

「あ、沖矢さん!さっきの方は……」
「もう戻られましたよ。用事があるようでしたので」
「そう、ですか。あの女性って、前にコナン君の病室に来たんですけど……何者なんでしょうか」

 ガヴィは自主退院時、蘭たちの前にも姿を現している。沖矢はその時いなかったが、かなり物騒なやり取りがあったとは報告されていた。組織との因縁を明かしていない状態ではガヴィのことも話すわけにいかず誤魔化した、とも聞いていた。
 もしガヴィの正確な情報が蘭らに伝わっていたら、ガヴィがいる前でコナンの無事を喜ぶことも出来ないだろう。事実、沖矢や哀は、コナンの亡骸をガヴィが運んできたのではと思ってしまったのだ。
 沖矢は柔和な笑みを浮かべて、「海外に拠点がある探偵のようなものだと聞いていますよ。コナン君とは顔見知りらしいですから、助けてくれたのでしょう」と濁す。殺し屋まがいのことをしており銃撃戦を駆け抜ける人外だとは、とても言えない。
 
「そうなんですね。私、てっきり悪い人だと……。コナン君を着替えさせてくれたみたいですし」
「……そうですね。それよりも、蘭さんはコナン君についていてあげてください」

 沖矢はガヴィから受け取った袋の中身を確認する。嫌な予感がしたので袋から出さず、腕を突っ込んでのぞきこんだ。こそこそと、顔色の悪い哀が沖矢のそばによる。

「彼女……どうして、江戸川君を……」
「恩を売りに来たのでしょう。……やはり、今回ばかりは、感謝せざるを得ないようです」
「何が入ってたの?」
「ボウヤの服と、ミネラルウォーターと、濡れタオル。……服が血と砂で汚れています。爆発のあった場所にいたようですし、あの地域は今でも物騒ですから」
「彼が動けたとしても、無事にホテルまで戻れたか怪しいってことね」
「ええ」

 凄惨な光景を見ている可能性もある。念のため、コナンが目覚めたらカウンセリングを施した方がいいかもしれない。
 沖矢は未だ不安そうな哀の頭を撫でて、眠る頭脳を見つめた。

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