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「あと、気になることがいくつか」

 難しい顔をして、風見が言った。
 莫大な損害と数多の犠牲を出して、国際指名手配組織を壊滅に追い込んだ。捕縛した幹部は、作戦に協力した組織がそれぞれ身柄を預かっており、日本――公安も数名の身柄を確保するに至った。
 幹部の一人であり、コードネームをガヴィとする女は、現在公安の監視下にあった。正確にはFBIの預かりなのだが、ここ日本の病院で治療していることと、FBIが表立って動けないことから――日本側との協力関係は築けているが、知っているのは公安をはじめとする一部の人間だけである――降谷零の部下が監視にあたっていた。
 降谷零――偽名を安室透、コードネームをバーボンとする潜入捜査官である。作戦時の負傷でベッドの住人であるが、国際指名手配組織に潜入し幹部として認められ、強者揃いのその場所で探り屋として重宝されるほどの人材だ。
 安室透の病室で、降谷零の部下数名と江戸川コナンが風見の報告を聞いていた。小学生の姿はこれ以上なく異様だが、対組織作戦のブレインであるコナンを追い出す者はここにいない。

「まず、対象の傷の多さに驚いたと、担当医が。火傷、今回のものだけではない銃創、自然治癒した外傷も多く……まるで軍人か兵士かと」

 風見は、ガヴィのカルテのコピーを降谷へ渡す。コナンは椅子から降谷のベッドへよじ登った。降谷が場所を開けてくれたので、靴を脱いで乗り上げる。
 電子カルテの印刷で、手書きの文字はほとんどみられない。

「鎖骨については、ライフルの無茶な使い方が原因でしょう。骨折した痕もあるようでした」
「肝機能の項目、高いけどそれほどじゃないな……すさまじく酒飲みだと聞いていたのに」
「降谷さん、どこ見てるんですか」
「今回の入院で指摘された身としてはな、ついな」
「ねえ風見さん、ガヴィは一通りの身体検査してるんだよね?視力検査、これ、申告誤魔化してるんじゃ……」

 コナンは、正確な射撃と狙撃を披露した人間とは思えない視力に目を止める。
 例えば、東京都警視庁の採用条件として視力は0.6以上となっているし、FBIでは1.0以上が裸眼で求められる。
 コナンの身近で銃の扱いに秀でた人物といえば、FBI所属の赤井秀一だ。FBIきっての凄腕スナイパーである彼はすこぶる視力がいいし、もう一人、何かと関わりのあるガンマンもそこそこの視力がある。二人に限らず、警察官の知り合いが豊富なコナンにとっては、ガヴィの視力は違和感でしかなかった――左右とも、0.4。

「引っかかるのは理解できるが、今のところはそれを信じるしかない」
「あの時はコンタクトしてたとか……?」
「確保時、そういったことはなかったと聞いている」

 コナンは顎に手を当てて黙り込んだ。ガヴィの撃った弾が"捜査員に当たった"というだけならば、多少視力が落ちていても納得できる。しかし、ガヴィは正確に、捜査員の頭を狙っていた。牽制ではなく殺そうとして発砲したものは、頭を吹き飛ばしていたのだ。
 七〇〇ヤードの距離を狙撃してしまう赤井も大概意味が分からないが、ガヴィはそれ以上だ。
 パラパラとカルテ全体に目を通した降谷が、それをコナンの方へやった。コナンは改めて一通り目を通す。降谷のように、一目見ただけのものの情報を叩き込むことに長けてはいない。

「流れ弾が当たったことと、赤井に撃たれた以外は健康体か……。腹部の弾も、うまい具合に内臓を避けたようだし、まったく、腹立たしい」
「意識もはっきりしていますから、警戒して損はありません」
「絶対に目を離すなよ、二人以上は必ずつけろ。ガヴィが肉弾戦を苦手とするという情報だって、確実じゃないんだ」
「はい」
「逃がしてたまるか……!あいつ一人に、何人殺されたと思ってるんだ」

 ガヴィ確保が叶った場面でのFBIの犠牲は明らかだが、対組織戦でコナンら協力機関を罠に嵌めたのはガヴィが噛んでいたという話がある。ガヴィは組織に潜入していたスパイを把握していながら放置していた節があり、それを利用されたと言う訳だ。事実、バーボンこと降谷、キールこと本堂を筆頭に潜入捜査官の傷は重く、率いていた部下の犠牲もあった。
 疑わしきは罰する――そう言ってスパイ容疑がかかった構成員を殺そうと動いていた幹部・ジンと、ガヴィの方針は全く違う。ガヴィがどういうつもりでスパイを見逃していたのか分からないが――どこまで把握していたのか、未だに明らかではない――利用するためだと考えると自然である。

「自殺する恐れは?」

 コナンは、カルテのコピーを返しながら問う。既に、舌を噛んだり身近な道具で命を絶った者がいる。ガヴィを殺したいほど恨んでいる人物もいるだろうが、ガヴィほどの重要人物をみすみす死なせるわけにもいかなかった。

「今のところは全く。『死んでなんかやらない』と」
「ありがたい限りだな」

 降谷が吐き捨てる。コナンも複雑な心境で同意した。
 必ず情報を搾り取ってやる――それは関係者の総意だった。しかし、ガヴィの回復を待っての尋問が行われることはなかった。
 ガヴィは傷が癒えていないにも関わらず、自分の足で病室を出た。退院の挨拶と称してコナンの病室を堂々と訪れ、コナンへの見舞客を人質に姿を消したのである。
 その後の降谷の荒れようはひどかった。入院中であるコナンは会っていないが、別の病院に入院しているFBIの赤井秀一も、ひどく荒れていたらしい。コナン自身も、苛立ちを隠せてはいなかったのだが。
 公安とFBIの衝突がなかったのは、その時の監視に双方がついていたためである。ガヴィは腹部と足首に銃創を抱えながら、病室内の監視二人と廊下の監視二人を気絶させていたのだ。
 監視カメラの映像は、繰り返して見た。敵ながら天晴としか言いようがなかった。
 ほとんど体を動かせないほどの衰弱具合は演技だったのだろう、錯乱した演技で二人の監視役を引き寄せると、的確に顎を叩いて気絶させる。点滴をむしり取るとベッドのシーツをはがし、洋服を取り出して着替え、気絶した監視役から銃を奪って自前のホルスターに仕舞う。一丁は弾倉をいじっていたので、コナンへプレゼントした銃は元々監視役のものだったことが分かった。ガヴィはそうして支度を整え、堂々と病室を出たのである。

「協力者がいることは明らかだ」

 退院した赤井がコナンの病室を訪れていた時、リハビリに励む降谷も話に加わった。
 見舞われる側である降谷がリンゴの皮をするする剥いていく。赤井が持ってきた見舞い品である。降谷はリハビリもかねて、リンゴの皮を切らすことなく剥いていた。
 赤井は沖矢昴としての変装生活で料理に興味を持ったとは言っても、未だ器用さでは降谷に敵わない。大人しく役目を譲って感嘆していた。

「公安、もしくはFBIに、組織のスパイがいたと?」
「それもありうるが、医師や看護師といった病院関係者に潜り込んでいるか、なりすましたか。これだけの監視を掻い潜っての行動だ、それなりに実力のある人物がまだいたらしい」
「そうだね……逃走経路も掴めなかったから。複数協力者がいても不思議じゃない。国外逃亡かなあ」
「十中八九、日本を出ようとするだろうな。空港に張り付かせても、一向に何もつかめない。とっくに出ている可能性が高い。ああ、出て行ってくれるのは嬉しいんだけどな?」
「あの組織以外にも力のある後ろ盾があったんだろう、恐ろしいことに。あの女も知らないようだったから、個人的なつながりが広いのかもしれん」
「ベルモット?」
「ああ。比較的交流のある方だったというベルモットでさえ、仕事を一緒にしたことはないというし、プライベートは全く明かさなかったと。交友関係も、仕事内容も、何もかも」
「お前は組んだことあるんだろ?」
「一度な。見込まれてというよりは、釘を刺しに来たのだろうが。喫煙者に何か恨みがあることしか分からん」
「あー、ジンが煙草を控えるくらいだから相当だろ。はいコナン君、リンゴむけたよ」
「ありがとう」
「赤井は半分そのままでいいか?」
「俺にも優しくしてくれ」
「仕方ないな」
「降谷さんは、ガヴィと仕事したことないんだよね?」
「まあ、ガヴィは誰かと組むことの方が珍しいらしいから。組織の人間が出歩く場所にふらふら出没するから、外見の特徴だけはほとんどの奴らが知ってたけど」
「"黒服で小柄な普通の女"?」
「そうそう。……多分、今回はそれが仇になってるんだろう」

 降谷はリンゴを全て切り分けると、おしぼりで手を拭く。リンゴの皮は一度も途切れなかった。
 コナンはリンゴを咀嚼しながら、降谷の言葉の続きを待つ。

「病室でいかにもな空気をまとっていたのも、今思えばわざとだ。あの女は擬態が非常に上手い。実際俺がバーで会った時、ジンの隣にいることが異様に見えるくらい"普通"だったんだ。
黒服で、社会の闇を暗躍する者らしい空気をもっていた人間が、白いワンピースで一般人然としてみろ、意識していなければ見逃すだろう。例えば、ジンが髪を切ってシャツとジーンズでラーメン屋なんかに入っていても、気づけるか危うい。
人の目を誤魔化すのに、魔女のような技術はいらないんだ」
「特徴ともいえない特徴のはずが、確かにガヴィを示す符号になってたってことだね。病室での空気は、ボクもちょっと引っかかってたんだ。戦う場所ではないのに、なんとなくプレッシャーを感じたから」
「ガヴィこそ、まるで潜入捜査官だな」
「ああ……ありえない話じゃない」
「え?本当に、どこかの諜報機関の人間だと思うの?」
「そっちじゃないよ、コナン君。ちゃんとした潜入の教育を受けてるってことだ」

 降谷の言葉に納得して、もう一切れリンゴをかじった。
 降谷や赤井は、スパイになるべくしてなったのではなく、能力の高さを買われて抜擢された人間だ。一般人よりはるかに身体能力、頭脳、洞察力等等優れているとはいっても、元来からのスパイとは少々毛色が異なる。
 コナンが根っからのスパイに遭遇したのは、イージス艦での一件程度だ。スパイはスパイであることを気付かせない。多くの事件に関わり、色々な場所に赴いている中でスパイを見破ったのは"たった"一回なのだ。
 キールこと本堂がスパイであること――実際は味方だったにせよ、一応組織の人間だった――を見破ったのは偶然が重なったからである。また元々の彼女の役目は"繋ぎ"であり、長期間の潜入ではなかったという事情もあるので、スパイとして一流とは評価できないだろう。
 ナイフやまな板を片付けながら、降谷が独り言のように口にする。

「ガヴィはよく姿を見せているくせに、拠点や個人情報は一切漏れていない。一人で動いているくせに、誰よりも情報量が多い。一度姿を隠せば、見つけるのは至難の業……。オールマイティに動けるのは確かだ」
「ばかすか発砲するスパイなど聞いたことはないが、おそらく、仕事以外では撃たないのではないか?」
「ガヴィに拳銃っていうのも、一つの特徴になるもんね……。あ、そうだ。赤井さん、ライフル片手で撃てる?」
「やろうとも思わん」

 赤井が肩をすくめて首を振る。コナンも深く頷いた。
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