3-2


 ローレン・ヒルは、三十歳を目前にした、まだ働き盛りの女性である。
 ローレンは、入院した母親の看護のため、半年ほど前にロサンゼルスへ越してきた。父親は既に事故で他界しており、ローレンは一人娘。母親の見舞いや身の回りの世話、家の管理を一人で行っていた。
 母親の病気は重く、退院の目処もたたず、治療費がかさんでいく。ローレンは家近くのスーパーでパート勤務をしつつ、貯金をくずして生活していた。
 恋人もないローレンは、母親の看護中心の生活に疲弊し始めていた。だが、母親や家のことを投げ出さなかったのは、ある花屋オーナーのおかげであった。
 ダミアン・ジョーンズは、四十代の白人男性で、ロサンゼルスに花屋を構えている。親しみやすい人柄とユーモアのあふれる話に惹かれ、多くの常連客がいた。若くして妻を亡くしているが、女性からのアプローチには一切応じない一途な面もある男だ。
 ローレンは毎月、ダミアンの花屋へと足を運んでいる。他愛ない話をして、母親への見舞いの花を見繕ってもらうのだ。母親は瑞々しい花に喜ぶし、ローレンも病室にいくのが楽しみになる。
 その日も、ローレンはいつものように花屋へ足を運んだ。ダミアンの接客が聞こえないことに疑問を持っていると、腰を抜かしている女性と、その視線の先でピクリともしないダミアンを見た。
 なんてこと。ローレンは頭痛をこらえて、必要な確認と通報をし、駆けつけた医者や警察にも協力した。途中、なにか訳ありらしい男二人からも声を掛けられたが、ダミアンが事故で亡くなったのは明らかなため、ローレンは早々に息苦しい空間から解放された。
 母親への見舞いは調達できなくなってしまい、ダミアンからの有意義な話を聞くこともなくなり、ローレンはこれからを思って頭を抱えた。
 顔色の優れないままバスに乗り、ふらふらと、一人には広い家に帰宅する。
 しかし、玄関のドアを閉めた瞬間、ローレンは丸めていた背を起こした。

「……本当に、なんてことだ」

 ローレンはトイレに向かうと、容赦なくヘビの指輪を流す。水流に飲まれていくのを確認してから、一つ舌打ちをして早足で私室に入った。
 これ以上、ロサンゼルス(ここ)にいる訳にはいかない。
 並べた家族写真や旅行のお土産などには見向きもせず、最低限必要なものを鞄に突っ込む。無くても問題はないが、よりスムーズに移動するためには必要だ。
 ローレンは帰宅してからおよそ十分で再び家を出る。近くのスーパーにアイスを買いに行くような軽装だが、この家に戻ることは二度とない。
 ローレンは何食わぬ顔をしてバスに乗り、ショッピングモールに出かけると、商品を物色しながらトイレに向かう。客が多くトイレまで騒がしい。
 ローレンは個室で用を足すことはなく、"赤茶色のウィッグとテーピングを外し、カットソーを裏返し、スカートを脱いでショートパンツ姿になる"。"手早く化粧を直し、髪を整え、ウィッグとスカートをこのショッピングモールのテナントのショッパーに入れた"。
 人の出入りが多いトイレでは、一つの個室が十分閉まっていようと目立たず、気にする者もいない。
 ローレンの面影を一切なくした女性は、呑気にコーヒーショップで休憩する。つい先ほど、親しい人物が亡くなったようには見えないくつろぎ方だ。
 あとは適当な場所でショッパーを捨てれば、ローレン・ヒルはいなくなる。彼女は、ローレンと自分が繋がるような証拠は残していないし、監視カメラにももちろん注意を払っていた。
 ローレンと彼女は似ても似つかない。ただ、知っている人が見れば――彼女がガヴィであるとはすぐに分かるだろう。

「腕のいい情報屋(とってもいい人)だったのにな……」

 ガヴィの不運は、まだ終わらない。



 組織が壊滅に追い込まれてからというもの、ガヴィは非常に忙しい毎日を送っていた。
 極力、静かに幕引きをするために。明るい世界の人間が暗い世界へ入り込まないように。幹部連中で唯一自由の身であったガヴィは、あちこちへ駆けずり回っていた。
 各国の警察と派手にドンパチはしたが、組織の構成員は全員が戦闘員ではない。組織のトップが倒れたことで、移動を余儀なくされた構成員や協力者も多い。彼らの移動の手配に協力したり、協力者への報告も必要だ。組織による抑止力がなくなったことで暴れ出そうとする者たちへの牽制も、当然、ガヴィの仕事の一つだった。
 どこかの探偵の見解はともかく、ガヴィは殺人鬼でもなければ快楽殺人者でもない。仕事の内容が物騒なだけだ。
 ガヴィは、とても優秀な犯罪者である。その手腕をいかんなく発揮していたある時、自分を探る存在に気付いたのだ。
 プロだと直感した。野放しにしておくべきではない、と判断を下した。
 そうして、アメリカでの活動を始めたのである。
 そもそも、アメリカはガヴィの縄張りではなかった。組織の中では西欧諸国をメインに仕事をしており、アメリカはベルモットやジンの仕事場だった。
 だが、全くツテがない訳ではない。組織の時から利用していた人脈を使い、情報網を広げている最中、重宝していた情報屋が事故死"させられた"のである。

「ヘビさえなければ……もうちょっと気楽だったのに」

 おかしな事態になってきたな、と。深夜、ガヴィは廃業した大型モーテルで銃撃戦に巻き込まれながら考える。
 常日頃からデザートイーグルを装備している訳ではないので、少々こころもとないコンシールドキャリーで応戦していた。
 ガヴィはアメリカから出国すべく行動していたのだが、運び屋との待ち合わせをかぎつけられたらしい。待ち合わせにしていた場所で襲撃され、近くにあったモーテルに逃げ込んだのである。運び屋は早々に異変を感じて離脱したようなので、そちらは気にしていない。互いにプロなのだ、自分の身は自分で守る。
 ガヴィはスタッフルームに入り込むと、ため息をついて肩を回した。用意周到な割には、動きが素人臭い。捕まえて尋問したところで、トカゲの尻尾に終わりそうな気がしていた。
 これはさっさと身を隠した方が良さそうだ。
 フロアマップと周辺の地理を思い起こしながら策を練っていると、控えめな電子音が聞こえた。
 電話など置きっぱなしにしていたのかと、ガヴィは音を頼りに電話を見つける。どう考えても敵からの接触だろうが、ガヴィは受話器を取ることを躊躇わなかった。

「Yes?(なに?)」
『Lange nicht gesehen.(ひさしぶり)』

 返ってきたのはドイツ語だった。
 若い男の声だ。変声機などは通していない、人間の声。
 ガヴィは受話器を握る手に力を込め、眉を顰める。記憶力のいいガヴィだが、聞き覚えのない声だ。組織の元構成員や協力者ではない。
 ただ、心当たりがない訳ではなかった。

「……」
『Liebe, (親愛なる、)』
「Leck mich am Arsch.(失せろ)」

 最後まで聞かずに、叩きつけるように受話器を置く。事態の全貌把握には遠いが、厄介極まりない状況に立たされていることは理解した。
 受話器の向こう側の相手がドイツ人で、英語よりドイツ語が得意なため、ドイツ語で応答した、というならば良いが、ガヴィはそこまで楽観的ではない。相手が狙ってドイツ語を話しているとしか思えなかった。
 ヘビのモチーフだけでも不愉快な事態であったのに、苛立ちに拍車がかかる。
 己の事情を知っており、ガヴィを銃撃戦に放り込むような真似をする人物――思いつくのは、たった一人だ。

「生きていたのか……」

 ガヴィは静かに深呼吸をすると、スタッフルームの扉を開ける。理想的な逃走ルートは、一つ下のフロアにあるリネン室の窓から外へ出ること。リネン室は三階にあるが、ガヴィにとっては地上に降りることなど簡単だ。
 依頼していた運び屋は離脱しているが、"不測の事態"として別の者が待機しているはずなのだ。当初の待ち合わせの時間から丁度一時間が経過しており、保険の車が来ている頃合いだ。
 ホテル内は明かりがない。廃業しているので、火災警報器や非常階段の明かりさえない。
 タン、タン、とサイレンサーから放たれた銃弾が壁や床をえぐる。ガヴィはときおり暗闇に向かって発砲しながら、階段を駆け下りていく。
 廊下へ出たと同時に床に伏せる。複数の見えない弾丸をかわすと、驚異的な敏捷性で駆けだした。
 弾丸は、ガヴィに一発も当たらない。
 ガヴィは目標のリネン室に飛び込む。どうやらここにも、何者かが潜んでいるらしい。間髪入れずに背の高いスチールラックを蹴り倒すと、置き去りにされている古いリネンが雪崩をおこす。ガヴィの進路を半ば塞いでしまうが、乗り越えるのは簡単だ。
 ガヴィはリネンの間から放たれた弾丸を避け、窓に走り寄る。たてつけの悪い窓をこじ開けると、雲の合間から月光が降り注いでくる。
 地上にはFBIの車両が待機していた。いつの間にか、通報が入ってしまったらしい。これでは地上を抜けるのも一苦労だ。
 ガヴィは窓に足をかけながら、シーツの山を振り返り、銃口を向ける。
 黒い影がシーツを乱暴に跳ね上げた。ガヴィの照準は動かない。暗闇も目くらましも、ガヴィには何の障害にもならない。
 だが、薄汚れたシーツの中に浮かぶ暗い緑が、ガヴィの銃口を逸らした。

「――――、」

 ガヴィは髪を数本犠牲にして、窓から飛び降りる。空中で銃を持ち変えると、待機していたFBI捜査官に発砲しながら、通りに向かって疾走する。
 リネン室の人影は殺せていない。
 ガヴィは珍しく、感情をあらわに舌打ちをした。ひどく頭が痛かった。

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