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蝮は夜明けの夢を視るか

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黒岩は寝台に横たわりながら、隣で身を起こし俯いている坂口の横顔を見上げる。そして其の顔に灯された揺らめく感情に気付いて、眉尻を下げた。

『…、安吾。酷い顔だ』
「っ、誰のせいだと」

其の軽やかな声に、坂口はきゅと視線を研ぎ澄ましつつ目下の黒岩を振り返ると、咎めるように言う。余裕すら見せる黒岩だったが、僅かな沈黙の後響かせた言葉は思いの外力のないもので。

『僕、かな』

黒岩は淋しさとも取れるような色を滲ませた顔で静かに坂口を見る。
其の視線に動揺したのは坂口の方だった。

「っ―――、いえ、違いますね。僕がいけなかったんです。こんな、感情、…」

悔やむような言葉、責めるような声色が窓から射し込む月明かりに融けていく。黒岩はふ、と小さく息を漏らしてから『安吾は真面目すぎるよ』と続けた。

『僕みたいに成って仕舞えば、後は楽なのに』
「何を言いますか。貴方は決して楽な生き方はしていませんよ。涙香くんは…業に業を重ねて、その全てを自らで負おうとしてるような人ですから。…そのくらい、僕にも判りますよ」

黒岩は静かに、ゆっくりと瞬きをするとゆるゆると持ち上げた自らの手を窓の月に透かす。

『君は僕を神格化し過ぎだね。僕はそんなに美しい人間じゃない。充分、穢れて堕ちた存在だよ』
「…そうやって卑下するのは、どうにも悪癖ですね。貴方を大切に思う人間がそれを聞けば、幾ら吹聴するのが張本人でも腹が立つと言うものです」
『そう…』

坂口は、蒼白く光る黒岩の手をジッと見詰めた。其れはまるで血の通わない造り物のような美しさで伸ばされている。
出会ってからずっと変わらない黒岩の此の高潔さと美しさは、いつでも坂口の心の奥底を疼かせた。坂口を柔らかく包み込むような温度で甘やかしたかと思えば、刺すような冷たさで傷付けてくる。其のどちらもが黒岩の存在であり、毒のように坂口を捕らえて離さないのだった。

『ねえ安吾、…煙草が吸いたい』
「……此処は禁煙です。それに涙香君は愛煙家では無いでしょう」
『僕だってそう言う気分の時くらいあるさ』

はあ、そうですか。と坂口は立ちあがって近くの戸棚を開ける。どちらも然して愛煙家と言うわけでは無かった。其れでも、脳裏を過る煙の薫りは同じものだったし、"そう"であるとお互いに理解していた。

「、あちらでなら、どうぞ」

坂口は小箱を黒岩に放ると、部屋の反対側にある大きな窓を指差して、そう言った。綺麗にキャッチした黒岩は其の包装をみて僅かに瞠目する。

『…この銘柄、』

小さく声を漏らした黒岩の瞳には、全体が白く正面に赤丸が描かれ、其の中に商品名が英字で書かれた透明のフィルムに包まれた小箱が写っている。

「文句は受け付けません。僕の趣味ではありませんから」

坂口の言葉に黒岩は奥底が熱くなるのを感じた。何故なら今手中にある小箱の中身は、未だ絶ち切ることが難しい彼の男の愛好していた物だからだ。黒岩は僅かに眉尻を下げて、笑う。

『―――君のこういう優しい処が、僕みたいな奴につけ込まれる所以だ。安吾、君はもっと非道に成って良いと僕は思うよ』
「ご忠告痛み入ります」

坂口は捨てるようにそう言って、神経質な細い指で丸眼鏡をく、と整えた。






―――――――






相も変わらず、街では不穏な声が行き交っていた。

坂口の家で、聴講と言う名の情報収集をしていた黒岩。ふと不穏に浮かび上がって聴こえてきた其の会話に、異能力の集中度を上げる。

――「首領、」

其れは黒岩にとって馴染みの深い声。ポートマフィアが五大幹部の一人、中原中也のものだった。

――「生存兵に依ると組合襲撃後、我々より僅かに早く現場に着いた探偵社が、配下の異能者及び紅葉姐さんを連れ帰ったとの事です。――恐らくは捕虜として」
――「姑息な連中だねえ」
――「如何しましょう。我々と雖も五大幹部の一翼を人質に取られては迂闊に手が…」
――「よし!探偵社の社長を殺そう」

中原が僅かに息を呑んだ音が聞こえる。黒岩も苦いような顔をして、森の考えを受け止めていた。
同時刻に探偵社から聞こえてくる太宰と中島、そして尾崎のやり取りに思考を巡らせる。

『太宰……、引き摺り出す積もりか、』

黒岩は静かに呟くと、ゆっくりと長い睫毛を伏せた。そして目下に重なる数十枚の紙に視線を遣り、一番上にある寫眞付きの資料を持ち上げると、

『此の男――例の事件の時、太宰と澁澤に並んでいた露西亜人で相違無い筈……とすれば、此れはどうやら本当に厄介な話だ』

そう呟いて、寫眞に写る薄ら笑いの人物を見詰め、記憶に刻まれている事件の残像を想起する。多数の異能者が自らの異能力に因って殺される。――そんな、血腥い記憶。あの時は確かに、黒岩も自らの死を強く意識した。
黒岩はふ、と息を吐く。そして再び探偵社に意識を戻す。

――「ご指示の通り事務員は県外に退避させました。次は何のように」
――「調査員は全員社屋を発ち、旧晩香堂に参集せよ」

国木田が、少し離れた所に居る福沢と会話をしている会話だった。
黒岩はなるほど、と胸中で相槌し、其のまま福沢側の状況を聞いた。
福沢は社員らを傷付けられてどうしようもなく頭に来ているようで、命を狙いに来た刺客達を瞬く間に成敗して行ったのだった。

――「戻って主に告げよ。“善き心掛けだ”と。狙うならば今後も私のみ狙え。若し私の部下に手を出せば、如何な手段を用いても、貴君の頸を圧し折りに参ずる」

お見事、と黒岩は苦笑する。
そしてある海沿いの箇所で、もう一人の長が宣言するのを聞いた。

――「だからね、スタインベック君。俺の世界は今、輝きに満ちているのだよ。―――あの街は、必ず俺が手に入れる」


此れが正に、三組織異能力戦争の幕開けであった。

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