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蝮は夜明けの夢を視るか

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内務省異能特務課。異能力者を管理する機能を持つ機関。黒岩の古くからの友人、坂口安吾はそのエージェントとして働いている。立場としては参事官補佐。分かりやすく例えれば、牢獄に罪人を繋ぐ監視員のようなものなのである。

黒岩は自分の部屋ではない場所、その片隅にある寝台に丸まるようにして横たわっていた。目蓋を綴じてはいるものの、意識は覚醒したまま。小さな窓に掛かるカーテンの僅かな隙間から、月明かりが射し込んでいる。……夜だった。
僅かに身動ぐと、月光で艷めく黒岩の美しい黒髪の一房がパラリ。重力に従って頬に掛かる。覗いた形の良い耳に、不躾に流れ込み続けている世界の音。静けさを赦さぬ凄惨なそれは、黒岩の美しい顔を微弱に歪ませた。

「眠れませんか」
『ん…』

ラフな服装で、隣にある台所から戻った坂口は、黒岩の寝台近くにある机へとマグカップを置きながら声をかける。返事とも言えない声が耳に入り、少しだけ眉尻を下げた。
ゆっくりと身を起こそうとする黒岩をみて、坂口は静かに寝台の端に腰掛ける。

「此処に来てからずっと夢見が悪いようですね。毎晩魘されています」
『…、そうだね』

スルリ、坂口の手を借りることなく黒岩は寝台から降りる。僅かにふらつきつつも、数歩先にある窓辺の椅子に腰を掛け、膝を抱えた。

『君の家は少し、…僕の記憶に触るみたいだ』

黒岩はポツリと呟く。そして湯気の立つマグカップを手にして、一口喉を上下させた。

「其れは…気の毒ではありますが――此処が一番安全ですから、我慢してください」

今、二人が居る此の場所は、坂口の家だった。黒岩が横浜の街に戻ってから既に一週間以上経過しているが、拠点だとして坂口は決して此処から黒岩を外に出そうとしない。実質軟禁状態である。
確かに、黒岩の異能力の特性上、一処に留まっていても仕事である情報収集は遂行できるのだが。黒岩は此の流れも一つの推測として事前に考えていたものの、坂口の予防線の強さには多少辟易としていた。

「長官とも意見交換をした上での選択ですから、覆すのはかなり厳しいですよ」
『――そう』

種田山頭火。内務省異能特務課長官。果たしてあの男がこんな選択をするものだろうか。
黒岩短く切り返しながら、脳内で新たな仮説を立て始める。そして再び口を開く。

『安吾は僕をどうしたいんだい?』
「先程も言いましたが――」
『特務課としたら、僕に死なれては困る、そう謂う事だ。其れは重々承知さ。僕の此処には、大切な事が沢山、詰まっているからね』

コンコン、と自身の頭を人差し指で叩きながら椅子から立ちあがり、坂口に振り返る。黒岩の視界に入ったその顔が、困ったような、悲しいような、バツが悪いような。様々な感情を綯交ぜにした様相で視線を逸らすものだから。

『ふふ、…』

小さく零れる笑い声。坂口の腰掛ける寝台に片膝を乗せて、半ば覆い被さるような体制になった黒岩は、複雑な感情を呈している相手の米神付近をコツコツ、と指先で軽く叩く。

『…下手したら君の此処よりもずっと沢山、ね』
「涙香くん、」

両者の前髪が混ざり合うような。そんな距離。黒岩は、片手を坂口の肩に添えて唇で弧を描く。
坂口は至近距離にある美しい顔をジッと見詰めてから、静かに口を開いた。

「……何が欲しいんです」
『何だと思う?』
「さあ…検討もつきません。貴方の頭の中はいつだって僕よりも先を見て居ますからね」
『そう…』

黒岩は不機嫌な様子を隠さない坂口に少しだけ笑う。

『ねえ安吾、もう一度聞こうか。――僕をどうしたいの?』
「其れは、」
『僕を此処に留め置いている此れは、君の独断で行っていることだ。種田さんは何の関与もしていない。そうだろう?』

坂口は黙り込む。黒岩を視界から外すように視線を下げて、何処か吐き捨てるように言った。

「――もう解っているんでしょう、涙香くん。僕は、長官が貴方を手中に入れた時の化学反応を恐れているんです」
『何故?』

黒岩は両手を坂口の頬に添えて、静かに問う。其れは、既に先が見えてしまっている者の声色だった。

「っこれ以上――、貴方に危険が及んだり、貴方が食い物にされるのは、見たくないからですよ」

坂口は不本意だ。と言う顔色を隠しもせずに眉を寄せて目の前の麗人を見る。すれば、…ありがとう。そう言って黒岩は小さく微笑む。

『素直な安吾には、御褒美をあげる』

黒岩の其の甜やかな声に、坂口は胸中で悟らざるを得なかった。…自分が彼にとって、友人と言う枠から、都合の良い取引先へと切り替わった事を。其れは坂口が何よりも遠ざけてきた事だった。
無論坂口はこの黒岩涙香と言う美しい男が、仕事を進める上での武器の一つが体であることは識っていた。しかしながら、其の相手が自分になってはならないと頑なに思っていたのだ。旧友を大切に思う心でお互いが結び付き続けて居れば、それで良かった。何より、自身が黒岩に対してこんな感情を持っている事が、先立ったもう一人の旧友に対する裏切り行為のようにも思えていた。

しかしながら、押さえ付け続けた欲は僅かな歪みを産み出して、選択を不完全なものに仕立て上げるのだ。
坂口の瞳に見え隠れする感情を受け取ってしまった黒岩は、自身の体躯に価値を見出だす。

そして、黒岩の唇が、坂口の其れに重なれば。

「――、何が欲しいんですか」
『……鼠の事を教えてくれるかい?』
「死の家の鼠……ですか」
『御名答。その情報をくれるのなら、僕は君が良しとするまで此処に居よう。そして安吾、君は僕に健やかな眠りを提供してくれ』

そう言って、黒岩は再度坂口に口付ける。

「取引、成立ですね」

坂口は静かに、黒岩を寝台に引き摺り込む。己の下に横たわる黒岩は、哀しいかな、月明かりに照らされて美しかった。


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