001

覚えているのは、虹色に輝く巨大な木。無数の枝を空いっぱいに広げ、小さな葉一枚一枚がまるで星のように様々な色に輝いている。それは美しく、雄大で、優しい色をしていた。きっとあれは私の失くした記憶を取り戻すたったひとつの手掛かり。あの光景を思い出すだけで、私は確かに励まされた。


キナはまた同じ夢を見て目覚めた。虹色の巨大樹の夢。これを見たときはいつも懐かしい、しかしもどかしい気持ちになる。
寝具のキャミソールの上から白いブラウスと紺色のスカートを着て、アンクルリボンのついた亜麻色の皮のサンダルを履き、身支度を整えた。酒場の方はもう賑わっている。海賊島の朝は早いのだ。
キナは仕事道具をそろえ、酒場へ向かった。シグルドはもう哨戒から戻っているだろうかと考えながら。

酒場では、キカが連れてきた珍しい客人が注目を浴びていた。近海に浮かぶ島国オベル王国の王と、その王が「リーダーだ」と主張する謎の少年、カイである。彼らは何やら神妙に話し合っていたが、しばらくするとそれも終わり、好きに酒を煽り始めた。
キナが酒場に入って来たのは、その緊張が解けた頃だった。荒っぽい海賊島の酒場を横切る、颯然とした美しい少女を目にしたリノは、不思議そうに目を瞬いた。
「おい、あいつもお前らの仲間なのか?海賊には見えんが。」
リノが差した先を、キカたちが振り返って見た。
「ああ、キナは何か月か前にこの島に流れ着いた娘でな。保護したんだ。」
キカが何でもないことのように答えた。
「記憶がなく、言葉もわからなかったが、頭が良くてな。今では、ここの金の管理を任せている。今までは、シグルドが一人でやっていた仕事で、他にできる奴もいなかったからな。助かってるんだ。」
リノは興味があるのかないのか、ふうん、と呟いてジョッキの中の酒を一気に煽った。キナは小さな頭を振って酒場の中を見渡している。そのたびに、白いリボンのついた艶のある黒い髪が柔らかく揺れるのを、カイは無意識に眺めていた。
「おい、キナ!こっちだ。こっち!」
キナを呼んだのはシグルドだった。キナはぱっと振り返って、丸い大きな黒い瞳でこちらを見た。カイは突然視線がぶつかったので驚いて視線を外した。しかしそれでも、なぜだか瞼の裏に、キナの小さな顔にぷっくりと咲いた赤い唇や、吸い込まれそうな大きな瞳、真っ白な肌に広がる淡い桃色の頬が焼き付いて、いつまでもちらついた。
「シグルド。」
キナは妙なイントネーションで彼の名を言い、遠慮をするように肩を竦めてシグルドに駆け寄った。そして、持っていた冊子をシグルドに見せ、二人はぽそぽそと小声で何かを話し始めた。話のキリがついたらしいことを見ると、キカは、キナの背中に手を回した。
「キナ、少しいいか。」
「はい。」
キナは不思議そうに、キカと、キカと話をしていたリノとカイに向き直った。
「カイ。キナもお前の船に乗せてやってくれないか。」
「え?」
不思議そうに声を出したのはリノだった。
「いいのか?仕事を任せているということは、お前の中ではそれなりに信用している仲間なんだろう?」
「そうだ。初めは助けたつもりだったが、今は助けられることも多い。」
キカの言葉で、キナは少し顔を赤くした。
「だからこそお前の仲間に迎えてもらいたい、カイ。きっと役に立てるだろう。私が保証する。」
そう言うキカの隣で、リノはまた酒を煽った。
「他に理由がありそうだが?」
「ゲスい奴だな。まあ、そうだ。隠すような理由でもない……。ただ、キナはずっとこの海賊島にいていいような人間じゃない。それだけだ。」
「まあ、それはわかるような気もするが……」
リノはそう言って、意見を窺うようにカイを見た。
「歓迎します。」
カイが頷くと、リノも納得したように頷いた。キカは安堵したように溜息をついた。
「よろしく頼む。」
そして、キナを見上げてその細い肩を叩いた。
「キナ、お前は今日からあの船に乗るんだ。」
キナはきょとんとしたまま、少し不安そうに、カイに頭を下げた。
「よろしく…お願いします。」
「よろしく。」
カイが頷くと、キナは少し俯いて黙り込んだ。
「キナ、荷物をまとめて来いよ。」
キナの背中を押したのはシグルドだった。キナは頷いて、酒場の奥の扉の方へ小走りに去って行った。
「すみません、あいつ人見知りで……。」
シグルドがまるで兄のような顔をしてカイに詫びると、隣のハーヴェイは不満げに口を尖らせ、やや乱暴にシグルドの肩に手を回した。
「そうそう、ほとんど喋らねえんだ、こいつ以外とは。」
「ハーヴェイ。拗ねるな。」
シグルドは鬱陶しそうにその手を払いのけると、何食わぬ顔で酒を煽った。ハーヴェイはそんな相棒に、拗ねてねえよ!と抗議をしているが、まったく意に介されていないのだった。
「今の娘、記憶がないと言ったが、出自や遭難の原因に心当たりはあるのか?」
リノは神妙な顔でキカに尋ねた。
「ない。」
キカは躊躇なく頭を振った。
「わかっている。手放しでは信用できないというんだろう。それは仕方がないから、疑いがあるのなら監視でも警戒でもしてくれて構わない。それを拒む権利はこちらにはない。キナを海賊ではなくしてもらうのだからな。」
「お前らしくないな、キカ。そこまで他人に肩入れするとは……」
「そうでもない。ただあいつは、善悪を間違えるような人間ではないと思っているだけだ。」
その妙な評価にリノは首をかしげるのだった。キカはそれには興味がないといった様子でカイに視線を移した。
「どうだ、リーダー。お前はキナのことをどう思う?」
カイは突然話を振られたので驚いて、飲もうか飲むまいか迷っていたジョッキを危うく落としかけた。
「どうって……」
全員の視線が集まっているのを感じて、カイは少々戸惑いながら、無垢な顔をして口を開いた。
「綺麗な、子だなと」
すると彼らは一瞬静まり返り、ハーヴェイが噴き出したのと同時に、リノやシグルドも笑い出した。
「え?すみません……何かおかしかったですか?」
「いや。……悪くない。」
きょとんとするカイに、キカはにやりと笑ってジョッキを傾けた。

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