届かないものに焦がれていた

「……ふぅ」

 一人で生活するには十分過ぎるほどに広い部屋。つい先ほどまで前を歩いて屯所を案内してくださった土方様は仕事に戻ると言ってこの部屋の前で別れてしまった。周囲の部屋に人がいる気配もなく——角部屋で隣は鴨太郎様なのだから当然と言えば当然だ——静かな部屋には鍛錬中であろう隊士たちの声だけが遠く響いている。慣れない部屋の隅に置かれた寝具や箪笥だけが京にいた頃と全く同じもので、またその手前には少し前に詰めた荷物が段ボールのまま並んでいる。開いて整理しなければと思うものの、体は自然とベッドの方へ引き寄せられて、ぽすん、と小さな音を立てて座り込んだ。どうやらわたしはわたしが思う以上に疲れているらしい。

 土方様は私を引き受けることを本意ではなさそうにしていたが、それでも与えられた仕事を投げ出すことはなかった。それどころか、十分すぎるくらいにその仕事を全うされていたと思う。台所から食堂、書斎、局長室と副長室、そして平隊士たちの部屋に幹部用の部屋が並ぶエリア。宴会の催される大広間からわたしには直接関係のない鍛錬場まで、屯所の構造を一通り説明していただいた。その途中、女中間には数人の女中たちが働いて炊事の支度をしており、自己紹介をすればとても親切に「何かあったらいつでも相談してね」と肩を叩いてくださったし、医務室では明日以降共に働くだろう医師が白衣を着て事務仕事に励んでいた。

「話には聞いているよ、あの芹沢家の出身なんだって?」
「はい。医学については幼い頃より父から教えこまれて参りましたので、少しでもお役に立てるよう明日から精一杯働く所存です」
「そんな堅苦しい挨拶はいいよ、敬語もいらないからさ」

 白衣を着た医師もまた、この真選組に勤めているだけあって雰囲気はどこか近藤様に似ているような気がした。

 総じて悪くない時間だったと思う。仮に何らかの理由でこの場所に受け入れられなかったとして、何か困るということもないのだけれど、鴨太郎様の婚約者としてここにいる以上鴨太郎様の顔に泥を塗るようなことは許されないだろうから、初めから敵意を向けられたり爪弾きにされたりせずに済んだことは一つの安心要素でもある。

「……4時15分」

 枕元に置かれた時計が現在時刻を指している。「6時には夕食が始まる。今日は宴会場だ。そのまま伊東の帰還祝賀会を兼ねているそうだ」という、努めて無表情を保とうとしていたらしい土方様の、それでも嫌悪を隠しきらない声を思い出した。夕餉の前には迎えに行くと鴨太郎様は言っていたはず。1時間半は眠れるだろう。布団は柔らかく石鹸の匂いがした。どうやらここで洗濯までしていただいたようだ。女中頭の田中さんには明日お礼を言いにいこう。そんなことを考えながら瞳を閉じれば、引っ越しに疲れた体は休息を欲していたようで、あっという間に意識は闇へ沈んでいった。
 


◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「カンパーイ!」

 制服を着た隊士たちの中、一人和服に身を包んだ女がいるというのも奇妙な光景に違いないけれど、別にわたしの意思ではないのだから仕方がない。近藤様と土方様、そして今日の主役であろう鴨太郎様に並んで大広間の上座に座らされたわたしは、アルコールが得意でないことを知っている鴨太郎様のお陰でオレンジジュースを入れられたグラスを猪口代わりに掲げている。この席ではとても隊士たちと懇親を深めるどころではないだろうが、あちら側もわたしなんぞに話しかけられても困るだけだろう。大きな声で鴨太郎様に話しかける近藤さんの声を聞きながら、黙ってオレンジジュースの瓶を傾け続けた。

「アンタ、それ俺にも下せェ」
「……オレンジジュースですか?」
「ああ」

 近藤様が鴨太郎様の言葉に何度も何度も大きく頷いていた頃、わたしはすぐ隣に座っていた隊士に話しかけられていた。色素の薄い髪に童顔——童顔にしても幼すぎはしないだろうか。どう見ても未成年の彼は猪口を置いて、チェイサーの水を飲むために用意されたグラスをこちらへ傾けている。

「……どうぞ」
「お、ありがとな」

 瓶を傾けると重力に従ってオレンジ色の液体も同じように傾いてゆく。やがて瓶の先から細く流れる液体が、男の白い指で支えられたグラスに注がれていった。八分目まで満たされたところでそっと瓶を垂直に戻すと、男はそこにストローを刺して口に含む。ジュースはあっという間に空になった。それから男との間に会話はなく、お代わりを要求されることもなかったので静かに瓶を床へと置いた。

 名前も知らない男だがこの位置に座っているということは幹部だろうか。俄かには信じがたいけれど、隣でいよいよ熱の籠る声で演説を始めた鴨太郎様を尊敬の眼差しで見つめる近藤様の様子を思えば何も不思議なことではない。

 胸のどこかが軋むように痛んだ気がした。それは僅かな一瞬のことで、原因もどこが痛んだのかも、そもそも本当に痛んだのかさえ曖昧なわたしはそれを錯覚と片付けて、大きな声で真選組の未来を語る鴨太郎様の声を聞きながら、再びストローへと口をつける。

 鴨太郎様はお酒を飲まれるたびこうして将来のことをよく語って聞かせてくださるが、それは二人の時でなくとも同じらしい。仕事のことはあまり話したがらないお方だけれど、鴨太郎様のなさっていることがどれだけ尊く重要なことであるかは幾度となく聞かされた。内容はそれと概ね変わらないので、酔った時の癖のようなものだろう。いつも通りの鴨太郎様だった。

 あまり、興味が持てなかった。周りの隊士たちにも、鴨太郎様の語る理想のことにも。だから、広間の床の、板の筋をぼんやりと眺めながらオレンジジュースを飲み続けて、ただただ時間が過ぎ去るのを待っていた。何度目かの木目の小さな凹みを発見したところで、「そろそろお開きにしねェか」と言う土方様の声が聞こえた。

「おお、そうだな。そろそろ片付けるか」
「お手伝いいたします」
「そんな気を使わないでくれ梅ちゃん、君は今日の主役のひとりなんだから」

 宴会場に着いてから口を開いたのは隣の彼にオレンジジュースを注いだ時くらいのものだったわけだが、わたしは主役だったのか。口に出せば嫌味に聞こえると思ったその言葉は飲み込んで、「ではお言葉に甘えさせていただきます」と頭を下げる。

「梅ちゃん全然お酒飲んでなかったけど大丈夫?楽しかった?」
「梅はアルコールが苦手なんだ。むしろわざわざジュースを用意させて悪かったね」
「いや、ウチも総悟は未成年だから、宴会には必ずジュースを用意してるんだ。な、総悟……って、また日本酒飲んでたの?」
「そんなまさかぁ、このボクがお酒なんて飲むわけないじゃないですかー」

 総悟、と声をかけられたのは隣の男だった。目の前に置かれたお猪口が説得力を失わせている。近藤様は「全く総悟は……」とため息をつき、鴨太郎様は「沖田君は元気そうで何よりだ」と笑い、わたしはそれでようやく「おそらく幹部」の男が確かに幹部であることを知る。なるほど、一番隊隊長の沖田様。若くして剣の達人だと真選組の事情に疎いわたしでさえ思い当たる有名人だった。

「梅、僕はここで少し皆と話してから行くから君は先に戻って寝ていなさい。明日は早い。疲れが残っていては仕事に差し支えるだろう」
「お気遣いいたみ入ります、鴨太郎様」

 かしこまりました、と頭を下げて立ち上がると、土方様と目が合った。何も言わずにそのまま瞳は逸らされて、猪口に残った酒を飲み干している。「明日からよろしく頼むよ!」と言う近藤様に「こちらこそよろしくお願いいたします」と返し、今度こそ歩き出した。隊士達も一部は既に部屋へと戻っているようで、大広間も人はまばらだった。脇を通り過ぎるたび無言で頭を下げる隊士たちに同じように頭を下げて大広間を出ると、昼と比べて幾分か涼しくなった夜の空気が肌を包む。

「……綺麗」

 背後から響く賑やかな声とは対照的に、外は暗く静かだった。手を伸ばせば落ちてきそうな星々が夜の闇を彩っている。無意識にそっと片手を持ち上げていた。いっとう明るい星に指先がちょうど重なった。

(——落ちてくるわけ、ないか)

 当たり前のことだ。届くはずなどない。

「……寝よう」

 上げていた手は数秒で元の位置へと戻して部屋への道を再び歩き出す。古い床が小さく軋んで音を立てた。宴会場から遠ざかってもまだ賑やかな騒ぎ声が廊下に響き渡って、どこからかタバコの香りが漂っている。だがそれも自室の襖を閉じるまでだった。小さな音を立てて襖が完全に閉ざされてしまえば、部屋にはわたし一人。暗い部屋は広さだけなら十分すぎるほどなのに、その三分の一は未だ荷解きの済んでいない大量の荷物が陣取っている。片付けは週末でいいだろうか。眠る前に考えたのと全く同じことに、どうも身の回りのことに頓着しなくていけないなと思いながら、数時間ぶりの眠りに再び落ちていった。