此処に生きるということ


「さすが芹沢家の出身だな、手際がいい」
「……湿布は京にいた頃、鴨太郎様のためにもよくお作りしていましたから」

 医務室にて、勤務初日。大量の材料をすり鉢に入れ、湿布薬を作っていた。朝5時、隊士たちが朝の鍛錬を始めるのと同じ時間に目を覚まし、彼らが戻らぬうちに朝食を取って職場へ。昨日土方様に教えていただいた部屋をノックすれば、医務員の佐藤さんが昨日と同じ柔和な笑みでわたしを出迎えた。「よろしくね」と右手を差し出す彼と握手をすると早速棚におかれた材料を渡されて今に至っている。

「仕事だけど、ここには専門的な医療器具は多くないんだ。討ち入りで大きな怪我を負えばここではなくて大江戸病院へ搬送される。ここで手当てできるのは軽症の隊士たちだけだからね」とは佐藤さんの言葉だ。大江戸病院というのがどこにあるのかは知らないが、確かにこの小さな医務室では大掛かりな治療などとてもできそうにはなかった。だからこうして鍛錬が終わった後の隊士のために湿布を大量に作っている——それよりも重い怪我が見込まれる場合には病院へ行くことを勧めればいい。そう大変な仕事ではなかった。

「お、そろそろ終わったかな」

 佐藤さんの呟きに顔を上げる。ざわざわとした話し声と、足音とが近づいては遠ざかり、食堂の方へと流れてゆくのが聞こえた。

「湿布、このくらいで大丈夫でしょうか」
「ああ、そうだね。十分だと思うよ、ありがとう」

 会話の最中、コン、コン、と控えめに2回、扉が叩かれる。「どうぞ」という佐藤さんの言葉の直後、引き戸が引かれた。隊服を着た男が右腕を抑えている。

「すみません、鍛錬中にぶつけちゃって」
「大丈夫かい?芹沢さん、診てもらえるかな」
「えっ、佐藤さんじゃないんですか」
「僕でも構わないけど、芹沢さんでは何か不都合でもあるのかい?」
「い、いや……そういうわけでは……」

 わたしはふたりの会話を静かに見守っていた。明らかに戸惑ったようにこちらを見る知らない隊士と、書類に何かを書き込みながら立ち上がる様子も見せない佐藤さん。どうやら本気でわたしに彼の治療をさせるつもりらしかった。

「……捻挫ですか?」
「いや……」

 男は瞳を逸らし、抑えた右腕を隠すようにして立っている。初対面の医者が信頼できないのかそれとも——女に医者など務まるわけがないと思っているのか。佐藤さんはその様子を静かに見守っていた。

「右腕を触らせていただいてもよろしいですか?」
「……」

 此方を見ようともしない男に立ち上がって近づく。観念したのか、隊服を脱いで右腕を差し出す男。赤く腫れた患部にそっと触れる。男は一瞬顔を歪めたが、すぐにその表情を元の無表情へと戻した。

「……骨には異常はないようです。湿布を塗りますのでしばらくは安静にされてください」

 返事はなかった。構わずに先ほど作ったばかりのそれを腕に塗り、上から布を巻いて名前を尋ねる。ぽつりとこぼしたそれを書き留めて、またなにかあればいらしてくださいと告げれば、何も言わずに部屋を出て行った。

「失礼な隊士だったねえ」
「……ふつうの対応かと」
「そう?僕はあんな隊士初めて見たよ」

 それはそうだろう。きっとあの男だって、相手が佐藤さんだったなら何も言わないしあんな態度も取らないはずだ。理由ももちろんわかり切っている。

「女性の医師など江戸にはまだ少ないでしょう。天人には多いと聞きますが……女に傷を治療されるなどプライドに触るという隊士がいてもなんら不思議ではありません」

 それはそうかもしれないけれど、と佐藤さんは少し不満げに呟く。勿論そういう隊士に気分がいいはずはないが、だからといって特別気分を害することもわたしにはなかった。まあきっと、佐藤さんもしばらくすればそういうものだと慣れるだろう。

「まあ、伊東先生から腕についてはお墨付きをもらっているらしいし、僕としては新人というよりは同僚として付き合っていきたいんだ。もちろん薬の位置とか、ここ特有の書類仕事については追々説明していくつもりだけどね」
「それは……ありがとう、ございます」
「感謝するところあった? まあ、とりあえず今日はちょうど報告書を上げないといけなくてね、芹沢さんがいてちょうどよかったよ。患者さんの対応は任せて大丈夫かな?」
「……同じようなことが繰り返されることになりますが」
「隊士たちも君の仕事ぶりをみれば分かってくれるでしょ」

 佐藤さんは「頼りにしてるよ」と朗らかに笑っていた。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「あ? 何言ってんだそんなわけないだろ」
「いえ、ですから」
「女は黙ってろよ!」

「……なんだ?」
「医務室の方みたいだが……」

 いつも通りに朝の鍛錬を終え、朝食を取ろうと食堂へ向かう途中、隊士の怒鳴り声が聞こえて立ち止まった。近藤さんと二人で首を傾げ、とりあえず行ってみるかという提案に頷いて医務室の方へと歩いてゆく。同じように立ち止まった周囲の隊士達には「お前らは先に行ってろ」と告げる。怒鳴り声に答えていたのは女の声だった——トラブルの原因が芹沢ならば、余計な野次馬がいれば却って面倒になるだろうという判断だった。

「なんの騒ぎだ?」
「局長……!」

 医務室の扉を開くと、隊服を着た男とその左腕を掴む医務員、そしてその正面に芹沢が立っていた。男はたしか三番隊の隊員だったはずだ。近藤さんに気付いて慌てて正面を向いた男は気まずげな表情を浮かべている。

「何があった?」
「彼、芹沢さんの診察が気に入らなかったみたいで……」
「気に入らなかった?」
「骨折なので病院へ行ってくださいと申し上げただけです」

 芹沢は冷静だった。男は「そんなはずない、俺はこの程度で骨折なんて……」と呟いている。医務員の男はそんな彼に冷静に告げた。

「いや、多分芹沢さんの診断は合ってると思うよ。もちろん病院に行ってレントゲン取らないと確かなことは何も言えないけど……」
「な……佐藤さんまで……!」
「お前は一体何が不満なんだ? 骨折した足で無理やり仕事する方が差し支えるだろう。検査するだけでも病院に行けばいいじゃないか」
「で、ですが……」

 隊士の男はそれから言葉を続けられなくなり、項垂れて医務室を出て行った。医務員の男は苦笑いを浮かべ、芹沢は無表情のまま立っている。

「女医なんて珍しいとは僕も思ったけど、まさかこんなに大変とはね。診断一つくだすたびに殴られそうになってちゃ仕事どころじゃないよ」
「仕方のないことです」

 芹沢は慣れたような口調でそう言った。「そんなことない」と言い切れないのは自分自身、この女が来る前に全く同じことを近藤さんに向けて言ったからだ。近藤さんは「ウチの隊士が本当にすまねえ……」と深く頭を下げている。どことなく気まずい気分で思わずポケットに入れたままのタバコへと手を伸ばしかけたが、さすがに医務室で喫煙はまずすぎるだろうと考えてやめる。芹沢は「顔を上げてください、近藤様」といつもの無表情で言っていた。

「多少のトラブルは覚悟の上で参りましたから。わたしにできることは医務員としての仕事を全うすることのみです」
「梅ちゃん……」

 何もかも諦めているような表情だった。今までも何度もあったことだから、今更どうということもない、とでも言いたげな。近藤さんはそれを健気で真面目だと受け取ったのか「いい子だねェ梅ちゃん……」と涙ぐんでいる。

 ——だが、オレには、それがどうしようもなく不愉快で仕方がなかった。いつも冷静でお前になど理解できないだろうとどこか全てを馬鹿にしている、コイツの旦那を思い出させる。

 嫌なモンは嫌だと言えばいい。だがコイツの場合、本当にどうでもいいと思っているように見えた。何を言われようと、何をされようと、こうして諦めたように全てを受け入れているのだろう。

 オレはコイツを好きになれない。

「……隊士たちには失礼のないよう注意しておく。悪かったな」
「……土方様。ありがとうございます」

 表向きの言葉を取り繕ってそう告げても、女はぴくりとも表情を変えることはなかった。まるで己のことでさえどうでもいいと思っているように。苛立ちを飲み込んで芹沢から視線を外す。近藤さんに声をかけ、開いたままの引き戸から医務室の外へと一歩踏み出し、「梅ちゃん、がんばってね……!」と手を振る近藤さんを引っ張って食堂の方へと歩きだした。

「まさか初日からこんなことになるとはな……」
「見えていた展開だったがな」
「だが先生も認める腕の持ち主だというじゃないか。梅ちゃんは実際さっきの子の骨折にもすぐ気付いたみたいだし……」
「……誰も彼も近藤さんみたいにお人好しってわけじゃねェってこった」

 そう。誰もが女だからと見下さずに対等に接せるわけではない。医務員の男とはうまくやっているようだったが、隊士が女を認めるとは思えなかった。トラブルなどないに越したことはないが、女が此処に入ると決まった以上避けられないことだとも考えていた。それに対してオレや近藤さんができることなんざタカが知れてやがるしな。そもそも芹沢に——伊東の女のために何かをするなんざ虫酸が走る。本当ならそう言ってやりたかったが、「梅ちゃんに何かできることは……」とぶつぶつ呟いている近藤さんの手前何も言えず、食堂にストックされているオレ専用マヨの残量を思い出すことで心を落ち着けることにするのだった。