カルーアミルクに踊らされた先には


日の入りが早くなり、夜にもなれば涼しい風が吹くようになった、夏の終わり。

夕飯も終わり、それぞれが手早く風呂に入るとアルコール片手にベランダに出て、夜景を眺めながら一日の事を話し始めた。
相変わらず聞き手に回っている広光は、二人の会話を聞いているだけではあったが、退屈はしていないようで、時々、珍しく笑いを零していた。


「明日なんだけど、残業あるから夕飯は要らないし、先に寝てて」

「そんなに遅くなるの?」

「前に何回かあったの。課長ご指名の残業」

「へえ……、ご指名、ね」


あ、と。
何かを思い出した百合が、それを言うと、光忠と広光は同じ様に目を丸くし、驚いた。
だが、次の百合の言葉に一瞬にして眉を寄せ、不機嫌そうに表情を歪めた。

それもそうだ。
以前、百合の上司は男性と聞いていた。
その上司に指名されての時間不確定の残業。
百合の恋人である二人には、面白くない状況になるし、不機嫌になる理由としては十分過ぎるぐらいだった。

だが、救いはまだある。
百合の他に何人、上司に指名されて残業するのか。


「それで、何人ぐらいと残業するんだ?」


今の今まで黙っていた広光が不機嫌さを隠す事なくそう口にした。

低く唸るようなその声音に百合は、一瞬、びくり、と肩を揺らし、気まずそうに視線を動かした。
何か逃げ道はないか、と少し考えたが、目の前の恋人二人からひ、どう足掻いても逃げる事は出来そうにないし、きっと許してくれないだろう。

はあ、と、諦めたように小さく息を吐き、重く口を開いた。


「課長と二人……、です…」


言う事は言った。
だが、二人の目は見る事が出来なかった。
流石にそんな勇気はなかった。

でも、それも正解だったのかもしれない。

二人の目は完全に据わり、人一人殺ったのではないかと錯覚してしまう程で。
百合が見てしまったら、それこそ眠れない夜を過ごす事になる覚悟をしてしまうだろう。

もしそうなれば、その時は光忠も参加する。
広光一人でも体力が底を尽きそうなのに、そこに光忠も加わるとどうなるか。

そんなの目に見えて分かる。
体力が完全に底を尽き、死ぬ思いをする。

だから、百合は見なくて良かった。
それが正解だったのだ。

自分達を一切見ない百合に二人は、心の中で盛大に舌打ちし、はあ、と、大きな溜め息を吐いた。


「連絡は……?」

「小まめにします」

「絶対、だな?」

「成るべく、手の空いた時に、絶対」

「それなら、まあ…、今回は、ねえ…?」

「許すしかない、な」

「ありがとうございます」


圧迫尋問のようなそれに百合は、彼等の望む答えを口にするしかなかった。

だからと云って、こんな事ぐらいでは、彼等の事を嫌いにならない。
彼等は普段、自分の事をこれまでにないぐらい、気遣い、甘やかし、愛してくれる。
そんな彼等の事をこれぐらいで嫌いにも、嫌気を差す事も有り得ない。

第一、彼等のこれは、所謂、嫉妬と云うもので。
その表現の仕方は少々過激かもしれないが、感情表現が分かりづらい広光ですら、こんな分かり易い反応をする。

それが見れただけで十分だし、百合個人としては少し満足だった。
彼等にとって、それなりに満足のいく答えを出したからか、彼等も納得みたいだ。

手元のアルコールも無くなった事で、今夜はお開きとなり、百合は明日の残業に憂鬱になりながらベッドに潜り込んだ。
だが、直ぐに襲って来た睡魔に身を委ねると、夢の世界へと旅立っていった。

翌日、百合が起きたのは、いつもより二時間遅い時間だった。
それは昨日、百合が退社する前に残業相手に百合を指名した課長からの御達示だった。

いつ終わるか分からない残業に付き合わすから、出勤時間は二時間遅くて構わない、と。

仕事に関しては、とても厳しく鬼のような上司だが、仕事以外では物腰は穏やかで、部下には優しい人だ。
百合が入社して直ぐ、百合の教育係に付いたのは、この上司で、百合が所属している課では、その上司の事は、百合が良く知っていた。

そもそも、その上司が百合を指名してまで一緒に残業するのは、百合の仕事の覚えが早く、さりげないサポートが上手いからだった。
むず痒い所に手が届くようなそんなサポートが非常に上手かった。

教育係に付いて三ヶ月程で百合の覚えの良さに気付いた。
更にその四ヶ月後にそのサポート力に気付き、試しに自分と二人で残業してみれば、段取りの良さや作業の手際の良さに素晴らしい人材を見付けたと確信した。

それからは、さりげなく百合に重要な仕事をさせてみたり、百合の仕事の片付け方を見たりと、他の部下よりも気にかけて様子を見ていた。

百合に出会う前の上司の悩みの種が、自分が教育係として付いた新人社員は、尽く辞めたり、異動願いを出したりと続く者がいなかった。
今回もそのパターンか、と、半ば諦めて指導してみれば、見た目によらず根性があり、必死に食らい付いてきた。

そんな姿を見せられては、百合を認め、自分の後継者に育てようと腹を据えた。
だが、これは上司の考えで、百合は知らない事だ。

だが、幸いにも百合は上司の事を嫌っておらず、寧ろ懐いている事だ。
上司の立派な部下に育てたいと云う、その熱意を百合は無意識に受け止めた。
その結果、仕事は早い段階で覚えたし、同期よりも重要な仕事に関わるようになったし、正直、お給料も同期より多く貰っている。

それは、一重に上司の指導があってこそ。
寧ろ、感謝しなければならない。

百合は、大きな欠伸を一つ零し、目を擦りながら起き上がった。
そして、一度顔をパシン、と叩き、ベッドから下りた。

それからは、いつもと同じ朝。
違うのは、時間が二時間遅い事ぐらいだ。

部屋から出て、ダイニングのテーブルを見るとメモが一枚あった。
何だろう、と思って、それを手に取り目を通した。

それは角ばった、光忠の書いたメモだった。
そこには朝の挨拶と冷蔵庫の中に朝食があるから温めて食べて、と書いてあった。

冷蔵庫の中を見ると確かにあった。
それを取り出し、電子レンジで温め、ふにゃり、と表情を緩ませながら食べた。

食べ終わり、一息つくと、そこからは素早く身支度を整えた。
長時間着ていても疲れないようなオフィスカジュアルな服を選ぶのは随分、頭を使ったが何とか着替え、メイクもパパッと終えた。

最後に忘れ物はないか、と、メイク直し用のポーチを見たり、モバイルバッテリーの充電を確認したり。
特に忘れ物はないようで、最後に戸締まりをすると会社へと向かった。

いつもと違う時間の電車に乗るのは新鮮だった。
いつも見るような人達ではなく、年配な人や大学生ぐらいの人と、違う世界に来たような感覚になった。

電車に揺られ、会社の最寄り駅に着くと10分程歩き、会社へと着いた。
自分の部署へ向かうと社員が一度、百合へ目を向け、次の瞬間には憐れんだ視線を彼女へ送った。

百合が二時間遅く出勤した日は、上司と二人きりの、いつ終わるか分からない残業がある日だ。
唯一の救いは、残業の翌日は、休みになる事だろうか。

ともあれ、残業が決まっている彼女にも、日中は仕事がある。
パソコンを立ち上げ、社内ソフトにログインすると、百合の業務は開始となった。


「もう、お昼ですよ」

「っ、課長……、お昼です、か」

「ええ、集中するのは良い事ですが、食べなければ夜まで持ちませんよ」

「……、そうですね」

「貴女の分も用意してます、一緒にどうですか?」

「それじゃあ…、お言葉に甘えて」


昼を過ぎた頃、出勤してから一息つく事もなく、仕事を熟していた百合の肩をポン、と優しく叩いた。
それに一瞬、息を詰めた百合は、ハッとし、後ろを振り向くと自分の上司が心配そうな表情で自分を見ていた。

月白色の髪を揺らし、その手には大きさの違うランチボックス。

そして、あの言葉。
上司が自分の事を心配しているのは、見て分かったし、そう言われた途端、空腹状態になっている事に気付いた。

上司の持ってくる弁当は美味しい。
上司が作った訳ではないのだが、上司の弟が残業の日には、自分の分も作って上司に持たせてくれる。

大きさの違うランチボックスだが、小さい方でも百合にしてみれば、少し大きい。
課長は男兄弟で、百合に用意するランチボックスは課長やその弟達が小学生の時に使っていた分だが、それでも少し大きい。

百合の分の弁当も用意する弟は、課長の直ぐ下の弟で数回会った事があった。
弁当を用意してくれる弟がどんな者なのか知った百合は、少し量が多くても有り難く頂いている。

デスクの上を少し片付け、課長と共に部署を出ると百合達が良く使う休憩室へと向かい、遅めの昼食を食べた。


「今日ですが、別部署にいる友人とその部下も手伝ってくれるそうです」

「御友人、ですか」

「ええ、大学時代からの。仕事は出来る人なので安心して下さい」

「そう、ですか…」


弁当に入っていた小さめのハンバーグを食べていた百合に課長は、そう言った。

残業に別の人間が参加するのは、今回が初めてだった。
しかも、その人物が課長の大学時代からの友人だった事には物凄く驚いた。
社内に課長の友人が居たなんて入社してから初めて耳にしたのもある。

この課長がこんなにも断言して"仕事が出来る人間"と言うのだから、自分が思ってるよりも、仕事が出来る人間なのだろう。
それに、課長の大学時代からの友人なら、課長、若しくは、課長以上の役職なのは間違いない筈だ。


「江雪課長の御友人がこの社内に居るなんて知りませんでした」

「友人と云っても、大学では先輩、後輩の間柄でしたからね。私と友人が通っていた大学から、この会社への内定率が高くて、私が知らないだけで同じ大学に通っていた人は居ると思いますよ」


そう言うと課長、江雪は冷えたブロッコリーを口にし、モグモグと口を動かし咀嚼した。
社会人なら不必要な残業は避けたいものだが、江雪から残業の手伝いを頼まれ、それを承諾する江雪の大学時代からの友人。

一体、どんな人なのだろうか。

百合は少し興味を持ちつつも、それを顔に出さず、江雪の弟が作ってくれた弁当を口の中に放り込んだ。

終業時間になり、退社を知らせるチャイムが鳴った。
百合の部署も帰り支度を始め、一人、また一人と帰路についていった。

百合の所属する部署は、月末と月始めは気が狂いそうな程忙しい。
終電はザラだし、男性社員なんかは、そのまま会社に泊まる程。
だから早く帰宅出来る日は、残業なんか知った事か、と我先に帰るのだ。

でも、百合と課長は残業。
先に帰る社員が残業のお供に、と、一口サイズのお菓子やら、栄養ドリンクやらを百合や課長にお裾分けし、帰る後ろ姿を百合は羨ましそうに見送った。

部署の社員が居なくなり、携帯を手に取ると、昨夜の約束通り、光忠と広光にメッセージを送った。
グループでのメッセージだから、一通送信するだけで、二人同時に送る事になる。
世の中本当に便利になったものだ。

二人からの返事は期待していなかったが、返事は直ぐに返って来た。

内容は自分達も残業になった事が書かれていた。
何でも、百合が残業するなら、お互いに早く帰宅する理由もないし、残業する事にしたそうだ。

光忠と広光は、比較的、残業する人間だが、二人揃っての残業は珍しい。

何でも、夜、家に百合を一人にするのが心配だそうで、光忠が残業すれば、広光が早く帰って来る。
その逆で、広光が残業すれば、光忠が早く帰って来る。

故に百合が、夜一人で家に居る事は少なく、必ずどちらかが居るし、自宅の最寄り駅で待ち合わせして、帰りにスーパーに寄って買い物したりする。
だから、今日二人揃って残業するのは、百合が一人で家で待っている訳でもないし、安心して金を稼げるから、残業する事を承諾したのだろう。

二人から返って来た内容にざっと目を通し、それに返信した。


『お疲れ様。あまり無理しないでね』


そう返信すると間髪入れず、返事が返って来た。


『百合もね』

『百合もな』


その返事に百合は、面を食らった表情になり、次の瞬間、小さく吹き出し笑った。

これ程までに息がピッタリな彼等なら、残業も早く終わるだろう。
彼等は、家に仕事を持ち込まないし、どんな仕事をしているのかは知らない。

ただ、同じ会社の同じ部署としか。

ともあれ、三人共にこれから残業なのだ。
これは頑張るしかない。

どうであれ、この後の仕事を片付けなければ、家に帰れない。

同僚達から糖分のお裾分けを貰ったし、栄養ドリンクも貰った。
今夜も何とか頑張れそうだ。

ふと、江雪を見ると眼鏡をかけていた。
日中、コンタクトレンズの江雪が眼鏡をかけたと云う事は、完全な残業モードに入ったと云う証拠で、百合は、ひゅう、と息を呑んだ。

百合の部署の予備のノートパソコン数台を会議室に運び、無線で社内ネットワークに繋ぐと社内ソフトを立ち上げた。
仕事道具であるノートパソコンのセッティングを終わらせると会議室にコーヒーメーカーやポット、2Lの水が入ったペットボトルに紅茶や緑茶のパックにミルクや砂糖を用意すると、百合の準備は終わった。

後は此処に江雪と助っ人の社員が来たら、魔の残業開始だ。

その前に一度、彼等にメッセージを送ろうと携帯を手に取った時、百合の後ろでがちゃり、と音がした。
もう助っ人の社員が来たのだろうか?と彼女が振り向こうとした時、その人物が口を開いた。


「先に会議室に行ってろって言われて来たんだけど、今日手伝う残業ってこの部屋で良いのかな?」


百合は固まった。
石のようにピシャリ、と。

そして、十分な間を空け、椅子ごとくるりと振り返ると、百合もその人物も同じ様に目を丸くし、口を大きく開ける事となった。


「み、つ忠…、さん?」

「百合……、何で…」


お互いが信じられないようで、その言葉には困惑が前面に出ていた。
百合は、目の前の光忠から目が離せず、光忠は百合と部屋の中の物を忙しそうに見た後、その長い脚を活かし、ほんの数歩で百合の前まで詰め寄った。
そして、百合の顔を大きな掌でペタペタと触り、何故か百合の胸を数回揉むと百合の頬を両手で挟み、そのピンクに色付いた唇に食らい付くようにキスをした。

こんな突拍子のない行動をした光忠は初めてだった。

こんな余裕のないキスも初めてだし、自分のしたいようなキスをする。
いつもは百合の様子を見ながら、角度を変えたり、キスの種類を変えたりする。

光忠が唇を離したのは、百合の体から力が抜け、ぐったりしてからだった。

恨めしそうに光忠を見上げる百合に光忠は申し訳なさそうに眉を下げ、百合の頬を優しく撫でた。
頬を撫でたり、背中を摩ったりしていると、もう一人、会議室に来て、10数分前の光忠と同じ反応をしたかと思うとカッと目を見開き、部屋から出て行ってしまった。

ある意味、予想外の反応に百合と光忠は、顔を見合わせ首を傾げた。

だが、その数秒後。


「国永ぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」


と、叫び声が響いた。
その声に光忠と百合は、何事かと会議室から顔をだし、百合の部署の方を見た。
するとそこには、部署の外から中に向けて、何かを叫んでいる広光の姿があった。

こんな大声を出す広光は、百合も光忠も初めて見た。

広光は、大声を出す事なんて無いと思っていた。
だが、たった今、腹の底からの叫び声を聞き、そんな広光の一面を認めざるを得なかった。

広光が叫んだ言葉は、多分、人の名前だ。
国永、と、そう呼んだ。

自分の知らない人の名前に百合は分からず、光忠を見上げた。
すると、光忠は必死に笑いを堪えていて、百合は首を傾げた。

一体、何がそんなに光忠の笑いのツボを刺激したのだろうか。


「く、くくっ…、っはぁー、笑ったなぁ…」

「何が?」

「ああ、ごめんね。国永って云うのは、うちの部署…、人事部の部長で伽羅ちゃんの遠縁に当たる人なんだ。伽羅ちゃんが大学でこっちに出て来てから、大学在学中にお世話になった人」


光忠はそう言って、百合がセッティングしたパソコンをカタカタと操作すると、どうやら一足先にログインしたようで、そう話した。
その点に関しては納得した百合だったが、どうしてその国永が自分を知っているのか。

そこまで考えて思い出した。

もしかして、その国永が江雪の友人なのかもしれない。
それなら国永が百合を知っていてもおかしくないが、どうやって百合と二人の接点を知ったのだろうか。


「伽羅ちゃんがゲイなのは、部長は知ってたんだ。で、百合と付き合って、大学時代世話になったから一応報告したんだけど…、まさか、部長と百合の所の課長が知り合いなんて思ってもみなかったよ」


苦笑いし、そう零した百合も苦笑いするしかなかった。

愉快な人。
しかも悪戯好き。

百合の中で国永は、そう印象付けられた。

江雪とは正反対の人物のようだが、それが逆に良かったのだろう。


「それじゃあ、部長は私達が一緒に住んでる事って……、」

「知ってるよ。一度、百合にちゃんと会いたいって言ってたけど、そうゆう意味だったのかもね」


長い脚を組み替え、そう言った光忠は笑っていた。

国永の外見は分からないが、もしかして社内で会っていたのかもしれない。
実際、江雪と歩いていると、江雪に親しげに話しかける人物が一人だけ居た。

それが国永かもしれない。


「ちょっと憂鬱な残業だったけど、少しだけ楽しめそうだね」


ふふ、と柔らかく笑みを浮かべた光忠に百合も笑みを浮かべた。


「迎えに行った方が良いかも」

「そうだね。いつまで経っても来ないし。……さあ、お手をどうぞ」


す、と百合に手を差し出した光忠の手を百合は取ると、どうやって広光の機嫌を直そうか。
そんな事を話しながら、広光達の元へ向かった。