05




ハンドル捌きから、時折バックミラーやサイドへ流れる視線から、横顔まで。運転をする安室さんは正直、余す所なく格好よかった。
イケメンでいい声で紳士な上に更に車の運転まで上手いなんて。天は二物を与えず、なんて言葉があるけれど絶対にそんなのは嘘だ。
現に目の前に二物どころか三物以上持ち合わせている人間がいるのだから。
あまりじっと見つめていて気付かれるのも罰が悪いので、飽く迄もさりげなくばれないようにを心掛けながらちらちらとその姿を目に焼きつけさせてもらっている。
だって、こんな機会は今後きっとそうない。今回はたまたま車に乗せてもらったけれど、ほいほいこんなことが起こる筈はないのだから。
迷惑を掛けっぱなしでいることを棚に上げて現状を勝手に楽しんでいた私は、お陰さまで徐に話しかけられた言葉にすぐに反応することができず、一瞬言葉に詰まってしまった。

「名前さんは今のお仕事を始められてどれくらい経つんですか?」
「っ、あ…!えっと、まだ社会人一年目のひよっこです。だいぶ慣れたんですけどやっぱり、働くって大変なんですねえ」
「今日もお仕事帰りだったんでしょう?随分と疲れた顔をしていましたよ」
「えっ、そんなに疲れた顔してました!?」
「ええ、だから居眠りなんてしてしまったんでしょう」

ふっと可笑しそうに笑う安室さんに何も言い返すことができず、言葉に詰まってしまえば更にくすくす笑いが続いた。「あまり笑わないでくださいよ」咎めるように放った一言に返ってきたすみません、という言葉も転がるように発せられて、全然申しわけなく思っている様子が伝わってこない。
むっと明らかに不機嫌な表情を作る私を気に留めた風もなく、安室さんは更にいろんな質問をしてきた。

仕事は楽しいか。休みの日はどんな風に過ごしているか。悩み事はないか。
ひとつひとつ答えていくたびに「そうですか」なんて素っ気無い返事が返ってくるのに、その声があまりにも柔らかく感じてしまったものだから。つい質問の意図が分からずとも馬鹿丁寧に答えてしまった。
あからさまに変なことを聞かれているわけではないけれど、まるで久しぶりに会った親戚の叔父さんとでも会話をしているようだな、なんて。そんなことを言ってしまえば気分を損ねるかもしれないからとても言えないけれど。

「私のことばかりですけど、安室さんはどうなんです?」
「僕ですか?」
「はい。何か好きなものはないんですか?…食べ物とか」
「食べ物、ですか。わりと何でも食べますよ」
「んん、お酒とかは」
「弱くはないですね。嗜む程度ですけど」

ああ、まさにテンプレートのような模範解答。どの答えにもそつがなく、可もなく不可もなくというところ。
しかし答えになっているようで、これでは好きな食べ物もお酒の好みもまるでもって分からない。
今日掛けた迷惑のお詫びに何かを贈りたいと考えての質問だったのだけど、返ってきた言葉では全く参考にならなかった。かと言って馬鹿正直に聞こうものなら目の前のこの紳士は気にしないでください、としか言わなさそうだから正面きって聞くこともできないし。

これは暫く悩みのタネになりそうだと、ふっと浅く息を吐いた。

「…雨、止みませんね」

そこまでの強雨ではないものの、フロントガラスには未だに次から次へと雨粒が打ち付けられていた。ザアアという雨音は家の中で聞く分には幾らか心地よく感じるものの、外に出ている今では大分憂鬱なものだ。
私の言葉にそうですね、と返した安室さんは悪天候の中でも中々の運転裁きを見せてくれている。夜とはいっても深夜でもない通りはそれなりに車も多く、会話が途切れてしまった今はすれ違いの車を何となく見送りながらぼうっと雨とエンジンの音に耳を傾けていた。
すると雨のせいで研ぎ澄まされた空気もあってか、遠くの方から随分と穏やかではない音が混じってくるのがだんだんと此方に伝わってきた。
甲高い、パトカーのサイレンの音だ。

「っ、…」

ウー、と唸り声を上げるかの如く、その音は確実に迫ってくる。
外に出てもいないのにじわじわと暗い夜の闇に飲み込まれていくような感覚だ。
脂汗がじっとりと額に滲み始めて、気持ちが悪い。

「…名前さん?」

けたたましい、不安感を煽る音。慣れなければと思うのに、思えば思うほどこの音を聞くたび、その赤い光がチカチカ回るのを見るたび、苦しくなる。
ついに赤いパトランプが視認できるところまで近づいた。警報を上げて中々のスピードで迫ってきたパトカーが、すぐ横をすれ違っていった。

「っ、は…」

一番音が大きく聞こえたところで耳を塞ぎたくなったのを堪えて、視線をひたすら足元に落とし続けてじっと耐えた。
音がだんだん遠のいていくのが分かっても落とした視線は上げられない。
パトカーの前に凄まじく風を切る音が聞こえたので、どうやらスピードを上げて走り抜けていった車を追いかけていったらしかった。暫くすると周囲からその音は完全に消えたようだけど、私の耳の奥では今でもあのサイレンの音がずっと響き続けていた。

…あ、やばい。息が荒くなって止まらない。

「名前さん、これを」

ぎゅっと瞼に力を込めて乱れた呼吸を整えるのに必死になっていると、不意に安室さんの落ち着いた声が耳の奥で鳴り続けていたサイレンの音をかき消した。緊張した瞼をうっすらと開けて声のした方に顔を向けると、片手でハンドルを捌きながらまっすぐと視線を正面に向けた安室さんがもう片方の手で此方にミネラルウォーターを差し出していた。

「まだ開封していませんので、どうぞ飲んでください」
「え、でも…安室さんが自分で飲む為に買っていたんじゃ」
「僕は今は喉が渇いていませんので。さっきから気分が優れないようですし、遠慮せずに」

すーっと、信号停止と同時にスムーズにブレーキが踏まれて、安室さんの穏やかな表情が此方に向けられた。それに何だか妙に安心してしまって、素直にボトルを受け取るとすぐに栓をあけて、ゆっくりと口をつけた。こくりこくりと、喉が音を立てる。
ほっとひとつ息を吐いた後、先ほどまでの体の緊張は完全にとけていた。信号が青に変わったと同時にアクセルを踏んだ安室さんは明らかに様子がおかしかっただろう私を見ても何も聞かず、車の運転に集中していてくれた。
その気遣いが、嬉しかった。

「…っと、聞いていたのはこの辺りでしたけど。この場所で合っていますか?」

気付けばいつの間にやら私の家の付近まで到着していたようだ。窓の外に目を凝らすと、自分の住んでいるアパートがすぐそこに見えた。

「はい、ここで大丈夫です。あそこが私の家なので。わざわざ送って頂いて、お水まで頂いて本当にありがとうございました」

思い返せば今日は安室さんに迷惑しか掛けていない一日だった。しかも原因の殆どは自分の至らなさ故で、あまりの自己嫌悪に蹲りたくなる。
せめてお水代だけでも、と財布を取り出そうとしたところで安室さんから制止された。思ったよりも幾分静かな声で、安室さんの口が開かれた。いつもより表情が少しだけ厳しい。

「名前さん」
「はい」
「さっき、自分の家を僕に指差しで教えましたね」
「…あ、はい」
「駄目ですよ。付き合いがあるとはいえ交際もしていない男性にすんなり自分の住む家を教えるのは」

いよいよ迷惑を掛けられすぎて穏やかな紳士の仮面が外れたのかと思ったら、厳しい声色でそんなことを言われて思わず面食らってしまう。
きょとん、とあからさまに呆けた顔をした私の様子に満足がいかなかったのか、安室さんは少し眉を吊り上げると念を押すように言葉を紡いだ。

「僕の場合は梓さんの手前という理由もあるんでしょうけど。本来であれば男性と2人きりで車に乗るというのも駄目ですからね」
「…それ安室さんが言うんですか?」
「だから僕の場合は幾らか気心が知れているでしょうし、梓さんの手前もあるから良いと言っているんです」

…な、なんだそのむちゃくちゃなこじ付けは。
安室さんの表情を厳しくさせていた要因もだけれど、何より今の言葉のこじ付け具合がおかしくて、ふつふつとした何かが込み上げてくる。
ついに耐え切れなくなってしまうと、吹きだすような笑い声を出してしまった。顔を伏せて小刻みに肩を震わせて笑い出した私がお気に召さなかったのか、尚も不満を孕んだ安室さんの声が上から降ってくる。

「…名前さん、僕は真面目に話しているんですが」
「わ、かりました…わかりました!……心配してくださって、ありがとうございます」

ふっと顔を上げて安室さんと目を合わせると、自然と唇が弧を描いた。
言われた言葉もその表情の厳しさも、元を正せば私を気遣ってくれてのものだというのがひしひしと伝わってきて。それがとてもくすぐったくて、それと同時にあまりにも心地の良いものだった。
もし自分に兄という存在が居たのだとしたら、きっとこんな人だっただろうか。
笑顔を見せた私にやっと吊り上げた眉を戻した安室さんを見ながら、そんな夢のようなことを思ってしまった。