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「――さん。名前さん、起きてください」

耳なじみの良い声が聞こえる。柔らかく私の名前を呼んで、温かい手のひらが肩に置かれる感触がして、遠慮がちに揺り動かされているようだ。
んっ、と鼻にかかるような掠れた声が無意識の内に唇から生み出された。それと同時にゆっくりと瞼が開いたなら、緩やかな気だるさが体全体を包み込んでいく。

「名前さん、目が覚めました?」

先ほどよりも大分クリアになった声が耳元で囁いた。ぼうっと導かれるようにその声の方へ顔を動かしたなら。一瞬固まった後、すぐさま火をつけられたようにがっと目を見開いて大げさに仰け反ることになる。

「あ、安室さんっ…!?」

ぼうっと寝ぼけていた意識が一気に正気に戻る程の衝撃だった。仰け反った先の衝立の壁に勢いあまってぶつかった程だ。
瞬く間に顔が熱を帯び始めたのも仕方がないことだと、誰かに慰めて欲しい。起き抜けにあんな甘い声に起こされて、目の前に整った顔がどアップで映し出されたのなら誰だってそうなるだろう、って。誰でもいいから慰めて、お願いだから。

慌てて距離を取ろうにも、今の状況を言えばポアロのカウンター席の一番右端を陣取っているような状態だ。右側に衝立がある今、左側にいる安室さんがちょうど逃げ道を塞いでいて逃れることもできない。
慌てたように焦っている私を尻目に、安室さんはふっと口元を緩めると少しだけ眉を下げて困ったように笑った。

「すみません、驚かせてしまいましたね。」
「ですがいつまでもその体制だと体を痛めてしまいますし、時間も時間ですから」

尚も困ったように笑いながら身に纏っているエプロンを外し始めた安室さんにはて、と内心で首を傾ける。

まずは、現状を整理しよう。今日は確か平日勤務の社会人にとっては一番解放感の溢れる華の金曜日で、珍しく定時で上がれた私はタイムカードを押したその足でこのポアロへとやってきた。
お店の扉を開けば今日は梓さんはお休みとのことだったので、安室さんに席へと通されてオーダーをした筈だ。
ちなみに安室さんとは、初対面から幾度もポアロに通ううちに大分気安い関係になってきたと個人的には思っている。
元々お話好きなのか、お客さんの少ない日は梓さんを交えて三人で談笑する、なんて日も珍しくはなくなっていった。
今日も変わらずそんな安室さんとの談笑を度々挟みながら、おいしい夜ご飯を楽しんでいた筈だった。途中ホール仕事で他のお客さんのもとへ向かう安室さんの姿を見送りながら食後のホットココアにほっこりとした気分になって、一週間の疲れをずっしりと肩に感じながらふと目を閉じて。――あ。
その後から、記憶がない。

そこまで思い至って、慌ててカウンターテーブルに置きっぱなしだったスマートフォンを手に取った。
画面に表示された時刻を見て、愕然としてしまう。

「も、もう閉店時間とっくに過ぎてるじゃないですか…!」

ぎょっと目を見開いて安室さんを見上げると、安室さんは尚も困った顔で笑っていた。

「すみません本当に…もっと早くに叩き起こしてくれて良かったのに」
「あまりにも気持ち良さそうに眠っていたので起こすのも忍びなくて。後片付けのうちに目を覚まされるかと思ったのですが」

そのお気遣いは痛み入りますと言いたいところだけれど、恐らく思い切り寝顔を晒して寝こけていた事実の方がよっぽど大ダメージだった。涎を垂らさずにいられたことがせめてもの救いだ。
とにもかくにも、多大なるご迷惑をお掛けしたことは明らかだった。慌てて立ち上がると起き抜けで少しばかり足元がふらついたけれど、椅子を支えにしてよろけるのを阻止する。
深々と頭を下げて改めて謝罪の言葉を述べると、安室さんはいいえ、と少しだけ声色を楽しそうに弾ませていて、顔を上げれば案の定笑顔を浮かべていた。じっとりと少しだけ恨めしげな視線を送ると慌てたように表情を取り繕って、こほんと咳払いをしてこの場を切り抜けることにしたようだった。

「さて、もう夜も遅いですし。今夜はお送りしますから」

何でもないことのようにさらっとそう言ってのけた安室さんはにこりと笑うと、さあ帰りますよと言わんばかりに私の背中に手を添えた。
言われた言葉とその行動にぽかんと一瞬呆けた私は慌てて思考を取り戻すと、いやいやいや、と首を横に振る。

「そんな、ただでさえご迷惑をお掛けしたのにこれ以上掛けられませんよ。私なら一人で帰れますから」
「そうは言っても名前さん、今日は傘を持ってこられましたか?」
「え…?」

促すように、安室さんの視線が硝子張りの喫茶店の扉の先へと動いた。
それに習って扉の外へ視線と投げると、それなりの勢いで雨が地面に叩きつけられている様子が見える。

「ね?今日は夜から若干天気が崩れるという予報だったんですけど、当たってしまいましたね」
「そういうわけですから、一緒に帰りましょう」

結局あれよあれよという間に、安室さんの車で送ってもらうことが決定してしまった。
私のせいで閉店作業が遅れたばかりか家まで送ってもらうなんて、どこまで迷惑を掛ければ済むのかという話だ。安室さんは何でもないことのように笑っているけれど、此方が申し訳なさで潰れてしまいそうだった。
とにかく後日改めてきちんとお詫びをするのだと自分に言い聞かせることにして、全く譲りそうにない安室さんを前にやっと観念した私は、有り難くその好意に甘えさせてもらうことにしたのだった。






「うっわ…」

たっかそうな車。
思わず漏れた声にきょとんと可愛らしい表情を見せる安室さんを何とか誤魔化しながらもスポーティーな白い車体を前に、ゴクリと自分の喉が鳴るのが聞こえた。
お幾らほどするんでしょうか、と思わず聞きたくなるほどのピカピカなボディーを見て、安室さんは一体何者なんだという疑問が生じてしまうのは仕方のないことだと思う。
探偵って、そんなに儲かるものだろうか。ぶっちゃけてしまうと探偵の仕事の他にポアロでアルバイトもしているくらいだからそこまで高収入だとは思えないんだけれども。
未だに不思議そうにしている安室さんを前にそんな失礼なことを考えながら苦笑いを零してしまう。何でもありませんよ、と言いながらお言葉に甘えて車に乗ろうとしたところでふと「あれ」という声が漏れてしまった。

「どうかされました?」
「あ、いえ。あまりにもかっこいい車だったので外国車かと思ったんですけど、右ハンドルなんですね」

ぽろっと、見たままの感想だった。
実際外国車に乗っているような知り合いなんていないし実物も見たことはないけれど、車なんて殆ど運転する機会のない俄かからしてみればスポーツカーといえば何となく左ハンドルのイメージを持ってしまう。
日本車でこんなにかっこいい車があるんだなあ、なんて軽い気持ちで発した言葉だった。

「――車でも何でも、購入するなら日本製に限りますよ」

いつもよりも幾分か静かな声が響いた。
運転席の扉を開けた安室さんはにっこりと貼り付けたような笑みを浮かべながら、言葉を続けていく。

「外国車なんて。ましてやアメリカ車なんて、とんでもない」

くすっと笑いながらさっさと運転席に乗り込んだ安室さんを尻目に、私は先ほどの彼の表情と放たれた言葉に些かの衝撃を受けて暫く呆けてしまった。
まるで外国に、アメリカに恨みでもあるかのような物言いに普段の穏やかな様子とのギャップを感じて混乱してしまう。
何か気に障ることを言ってしまっただろうか。そう考えても言ってしまった後ではどうにもできないし、謝ろうにもどの言葉が気に障ったかも分からなくて。このまま平然と乗せてもらっていいものか頭の中をぐるぐるとさせていた。

「さあ、乗ってください」

そう促すように私に言葉をかけた安室さんの表情は、いつもの穏やかなものに戻っていた。
結局それ以上のことは何も聞けずに素直に頷くと、乗り心地のいいシートに体を沈めてシートベルトを締める。
よろしくお願いしますと頭を下げる私ににっこりと微笑んでみせた安室さんを見て、そういえば初めて会った時もこんなことがあったなあなんて思いながら、エンジンをかけた彼の横顔を眺めていた。

どうにも謎の多い人だ。