雲一つない晴れた日には、五感がざわめく。視界は揺れ、耳鳴りがし、手足は冷えて身体中が渇き、吐き気がしてくる。

「……イル?」

淡い声音に呼ばわれ、ふと意識を戻した。
窓の向こうからこちらへと視線を動かせば、すぐそばに真っ赤な眼差し。泣き腫らしたわけでなく、体内のメラニンが欠乏しているため毛細血管が透けて赤色が見えているようだと馴染みの仲介屋が言っていた。

「どうしたの」

眼差しと同じ静かな問い。辺りは薄暗い。見慣れた室内だ。
次第に揺れはおさまり感覚は正常を取り戻す。

「……アリスは、」

生きていることが不安になることはないのか、と訊けば、笑って返してくれるだろうか。

「うん」

いや、それは愚問というものだ。
自らの全てを捨ててきたこの少女はおそらくそれを笑いはしない。笑い飛ばしてはくれない。

「なんでもない」

それはまるで彼の罪そのもののように。

「そう」

アリスは興味が失せたのか背を向ける。が、すとんとその場に腰を下ろした。白さの際立つ髪が床に触れる。
乱雑に物の溢れる暗い部屋の中、そこだけが光を孕んででもいるかのように。

ため息をひとつ。落とす。
こんな日には何かを忘れている気がしてならないのだ。

いや、記憶が欠如していることは自覚している。幼い頃の出来事を何一つ覚えていないのだ、それでもなんの問題もないと思って生きているのだが。それなのに。
それなのに、忘れてはならないものがあったような、とても大きなものを抱えているような、そんな気がするのだ。

もう一度、一目だけ外を見やればただただ青い空。他人はきっとこれを爽快と呼ぶのだろう。

「……飯でも食うか。おいで」

呼べば応えるアリスの存在に安堵して、彼は窓から遠ざかった。晴れやかな世界から目を背けるように。心を閉ざすように。


五感がざわめく。鉄のような、錆びた、におい、が。





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