「やあ、Mr.イリーガル」

廃れたビルディングの一室、合図もなしに入り込んできた男は片手を上げて笑った。

「おひさしぶり」
「なんだ、また来たのかMr.A。暇だね、君は」

返す彼も言葉は軽い。目を上げただけですぐに視線を手元に落とす。イリーガルと呼ばれた彼はどうやら読書でもしていたようだ。
濃灰のスーツを着たその男は気にした風もなく迷いのない足取りで、部屋の端に無造作に置かれたソファーに腰を下ろした。

「今回は世間話をしに来たわけじゃないんだ。悪いね」

雑多に物があるばかりの部屋で、そこがすでにAの定位置となっていた。
足を組んだAは懐から取り出した封書をひらり、ひとつ振る。

「某お方からの依頼だ」

イリーガルの口元が歪んだ。壁際のウッドチェアから立ち上がると散らばる物を避け、するりとソファーに近づく。すぐに封書はその手に渡った。
何の変哲もないシンプルな封筒から出てくるのは、これまた一見何事もなさそうな白い紙だ。ただ少しばかり分厚いか。

「諸々の条件などはいつも通り。対象は複数いるが、君なら余裕だろう」

手元の紙を捲るたび別人についての記述が現れては消える。顔写真、簡単な経歴、直近と近日中のスケジュール、それらをイリーガルは灰色の瞳から頭の中へと流し込んでいく。そのまま組み立てに入るのを、Aは目を細めて眺める。

「……報酬は当然相応なんだろうな?」

目を閉じ情報を反芻しながら仲介人へと静かに言い放つと、やんわりとした笑みが返った。

「いつも通りと言ったろう。もちろん、君が納得いくよう取り計らうとも」
「ならばよし」

受け取っていた資料を突き返せば、イリーガルから受け取ったAは慣れた手つきで炎を生み出す。その手にはライター。人目に触れさせるわけにはいかない物だ、物証は残さない。

「僕にしか出来ないから持ってきたんだろう。いいよ、引き受けてやる」

仲介と請負い、交渉の成立だ。すべていつも通りに。つつがなく。
Aが微笑んだ。

「ところで」

その首が傾く。濃茶のやわらかな髪が左肩にかかった。

「そこで眠ってるお嬢さんはどうしたんだ?」

視線の先には積まれた本に埋もれながら壁にもたれかかり、人形のようにくったりと眠り込む少女の姿。白い髪が年齢に不釣り合いで、しかし白髪と呼ぶには美しいそれは、白磁の肌と相まってさながら等身大のビスクドールといった様相だ。

イリーガルは一瞥しただけでソファーの肘掛けに腰掛けた。

「今朝拾った」
「拾ったって犬や猫じゃあるまいし」
「事実なんだから仕方ないだろう?」

その言い様にAは嘆息する。そして大げさに肩を竦めた。

「どこかから拐かしてきたわけじゃないことには安心したよ。Mr.がそっち方面にまで手を出したのかと一瞬思ったからね」
「そんな疑いを持つことこそどうかしてるぞ」

そうは言い切りながら、仕事として依頼されたなら実行しないとは限らない。そこは互いに了承済みだ。
二人の視界の隅で少女が身じろぐ。

「レディが知ったらお怒りだよ」
「知るか」
「こんな薄幸の美少女と暮らすならね」
「あいつはただの情報屋で、そいつはただの捨て猫」

少女の頭がこくりと揺れ、絹糸のような髪が流れた。
それは、世界の不条理も何をもまだ知らない、無垢な光景だった。





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