表情が乏しい、喜怒哀楽がない、感情が表に出ない、幼い頃から何度言われただろう。けれど私だって一人の人間。喜びを感じる瞬間や悲しみにくれる時、怒りを感じることはあるに決まっている。ただ、それを人に伝えたり表現するのが苦手で、どうしても面白みのない反応や表情になってしまうのだ。
そんな私とは対照的に、交際相手である中原中也という男は、それはもう表情のレパートリーが豊富で感情の起伏も激しい、人を飽きさせない人間だ。それ故に、嘗て中也の相棒であった太宰には及ばないにしろ、彼に言い寄る女は少なくなかった。
よく同僚から彼が酒場で出会った女と一夜を過ごした、なんて話を聞かされるが私はその度にふうん、そう、とさも気にしてないように、何とも思ってない様に受け答える。ドライな女、或いは器の大きい女、と思われているのかもしれないが、それは違う。本当は嫌で嫌で堪らないに決まってる。自分の恋人が、浮気をしてて何も思わない女なんて、いるわけない。
それでも私は、彼に浮気のことをとやかく問い詰めるような事はしない、否出来ないでいた。面倒で小さな女、そう思われたらきっと捨てられる。だから、どんなに悲しくても惨めでも、耐えてきた。彼の隣で過ごせる事が、一番の幸せだったから。
でも、それも今日で最後にする。
これという決定打はない、ただもう疲れただけだ。少しずつ折り重なっていった負の感情の箍が外れた瞬間、もう全てが如何でも良くなった。
【今まで有難う。さようなら】
最後にいつ連絡を取ったのかわからない中也のアドレスを開き、それだけ書いたメールを送信する。3年間続いた関係に終わりを告げる文章にしては短いのかもしれない。でもきっとこれくらいでいいんだ。私にとっては特別な3年間だったけど、きっと中也の中ではなんて事ない日々に違いない。
これで、明日からは只の同僚だ。中也が誰と何をしようが、私には関係のない事。
そう思うと、少し心が軽くなった気がした。
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あれから、何度か中也からメールや電話が来ていたけど、返す事はなかった。何ならメールは開けてすらいない。そして別れを告げたあの日から幸いな事に、職場で彼と会う機会はなかった。というのも、中也は現在、県外で起きてる抗争の鎮圧に向かっている。まだ暫く帰ってくる事はないだろう。彼が戻ってくる頃にはきっと私も、直接顔を会わせるような事があってもそれこそ、何て事ない表情で接する事が出来ているはずだ。
「憑き物が落ちたような顔をしてるのう。何かいい事でもあったのかえ?」
広間を歩いていると、それまで本に目を落としていた紅葉さんにそう聞かれた。彼女は、私の些細な表情の違いにとても目敏く気づく。
「御報告が遅れてすみません。私、中原中也と別れました」
「成る程、それでか。ここ最近やたら彼奴が御主の様子を聞いてきたのは」
「、、そうなんですね」
あまり知りたくなかった、そんな優しさを今更ちらつかされた所で、もう如何しようもない。
何か言いたげな紅葉さんから逃げるように「仕事があるので失礼します」と言い残し自分の仕事場へ足早に戻った。
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思わず目を疑った。何度も頬をつねり、現実かはたまた夢か確かめたがじんじんと熱を持つ頬が前者であることを物語る。
何故、私の家の前に、中也がいる?
、、、いやいやいやあり得ない、あり得ないでしょ。だって彼奴は今県外で勃発してる抗争を鎮圧しに行ってて、横浜にはいない。もし万が一帰ってきてたとしても、第一に私の家に来るんじゃなくてボスの元に報告に行くはず。うん、だからこれは何かの間違い。きっと疲れているんだろう。ちょっと寄り道して、何か美味しいものでも食べて、英気を養って帰ったらきっとこの幻覚も消えるはず。
くるりと振り返り、来た道を戻ろうとすると「何処行くんだよ」と、低く唸るような声に呼び止められる。
あまり信じたくないが、幻覚ではなかったらしい。
「、、何でいるの」
「いちゃ悪いのかよ」
「私の家より、先に行くべきところがあるでしょう?」
「んなもん如何でもいい」
ああ、これは本当に怒っている声色だなあ、なんてつい冷静に考えてしまう。彼が本気で怒った様子は何度か見たことあるが、その矛先が自分に向けられるのは初めてだ。
「何で連絡返さねえんだよ」
「、、メール見たんでしょう。それに、中也にとっては願ったり叶ったりなんじゃない?これで大手を振って女と遊べるわね。まあ別に今までもコソコソしてたわけじゃないから其処はあんまり変わらないか。兎に角おめでとう、これで晴れてお互い自由の身ね」
自分でも驚くほどつらつらと言葉が流れるように滑りでた。私、こんなに喋れるんだ。
「、、そうか」
先程までの痛いくらいの怒気は消え、彼らしくない随分控えめな声が沈黙を破った。
今まで散々浮気してきた癖に、何故急にそんな態度をとるのか理解に苦しむ。そんな顔するくらいなら、浮気なんかしてほしくなかった、なんて言葉がつい出そうになるがぐっと飲み込む。最期まで下手に出るなんて真っ平御免だ。
「お願いだから、帰って。これ以上、掻き乱さないで」
頬を伝う熱い雫は、一体何に対しての涙なのか、自分でもわからない。もう中也の事で泣くのはやめたのに、別れを告げたあの日から涙を流したことは一度たりともなかったのに。
こんな顔を見られては、まだ未練があると思われちゃうじゃないか。
「、、泣くんじゃねえよ。手前からふったんだろうが」
「うっさい、、とっとと他の女のとこにでも何処にでも行きなさいよ」
「俺の事、嫌いになったのか」
「、、、ええ、嫌いよ。大嫌い」
最後の最後まで可愛げのない女だなと、我ながら思う。こんなんだから、愛想つかされて浮気されたんだろうなあ。私がもっと素直で表情豊かで、愛嬌のある女だったら、中也は私の事だけを大切にしてくれたのかなあ、なんて今更考えても遅いんだけど。
「わかった。、、ただ最後に1つだけ言わせろ」
「、、、何よ」
「俺はどんな手を使っても、またお前を惚れさせる。だから覚悟しとけ」
どんな罵詈雑言が飛んでくるのかと身構えていたのに、予想外すぎる言葉に驚きのあまり涙がぴたりと止まった。いま、この男、なんて言った?
「いや、、、あんた、莫迦なの?」
「そうだな、愛してる女にちょっと嫉妬して欲しくて浮気する奴だ。なまえの言う通りだよクソ」
「は、」
言葉を失うとはこの事だろう。なに、じゃあ、中也は態々私にやきもちを焼いて欲しくて、浮気してたって事?なんで?やっぱり莫迦なの?
「つうわけだ、いいな。お前がいくら電話に出まいがメールを無視しようが関係ねえ。またお前の心、奪ってやるよ」
呆れた、、、ふられたのにここまで偉そうな態度をとる男はきっと世界中探したってそう見つからないだろう。中也ってこんな奴だったっけ?
「、、、やれるもんならやってみなさいよ」
ほら、また可愛くない事をいう。ここで素直にじゃあよりを戻そうの一言を言えば丸く収まるのに。
それでもそうしなかったのは、きっと私のちっぽけな自尊心を守るためというのもあるけど、こんなに必死に追いかけようとしてくれる中也の姿を、暫く見たいと思ってしまったから。自分でも呆れる性格の悪さだけど、それくらいの仕返し、したって罰は当たらないだろう。
どちらが勝つかなんてわかりきっている戦いの火蓋は切って落とされたが、簡単に降伏なんてしてやるもんか。
白旗片手に応援するよ
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