蓋をした悲哀を呼び覚ます

「やあ、来たね名前。まあ掛け給えよ」

 太宰の執務室は広く、それでいて何処か寒々しいと感じた。座っていた太宰が笑みを浮かべ、来室した私に椅子を示す。私はそれには応えず、入口の戸の前に立った。

「それで、聞いていると思うんだけどね、名前。今日から君は私の処の所属になったから」
「……はい」
「……ふふ、『何故』って顔してるねえ」
 顔に出した心算は無かった。おそらく此方の心情を悟っていただけだろう。そして何時の間にか呼び捨てにされている事に少し不快感を抱いた。

 数ヵ月前に出会った太宰は、それから、度々私に絡んできていた。任務の前後や帰り道。休日に待ち伏せされた時は本気で通報でもしてやろうかと考えた程だ。
 だから、その知らせを聞いた時、如何しても戸惑いを隠せなかった。

『私が?太宰さんの部下……ですか』
『ああ……良いか、名字』
 そう云って、一年間、私の世話をしてくれた織田作は、私の目を見て云った。
『何かあれば、俺に云え。……俺はお前の上司ではなくなるが―――まあ、先輩、として、出来る限り助けるさ』


「別に大した理由が有る訳ではないのだよ?君の事が気に入ったから、傍に置いておきたいと思っただけさ」
「そうですか」
 太宰の顔を見れば、明らかにそれだけではないと云う事が判る。「冷たいなあ」と笑う彼の目は、全く笑っていない。

「君の異能力は、触れた物の『寿命を吸い取る』ものだ」
「……ええ」
「そして、同時に人の寿命を感じ取る事が出来る」
 その通りだ。部下になるにあたっての確認の様なものだろうか。

 だが、それにしては何処か、笑顔や声に含んでいる物を感じる。それが少し不安にさせた。

「自分が見える物の正体を知った時、君は如何思った?」
「……何も」
「嘘だね」
 太宰が薄く笑って即答する。まるでその答えを予期していたかの様に。

「何も感じない振りをしただけだ。そして無意識に『人の死』を恐れている」

 ―――――何、を。

「……何を云っているのですか」
「人を殺したくないんだろう?」
「それは、その通りです。でもそれに理由なんて」
「君は目を背けただけだよ。そうでもしないと心が壊れてしまうから」
「……それは」

 それは、違う。私は何も感じなかった。だってあの時だって悲しみなんて感じなかったのだから。


 ―――あの時。両親が死んだ時。


「…………」

 そこまで考えて、思わず呆然とする。
 私は何故、今、その事を思い出したのか?

「図星、でしょ?」
「……だったら、何ですか」
「おや、立ち直るのが早いねえ。これは期待できそうだ」

 何の期待だと云うのか。太宰が立ち上がり、此方へ近づいて来る。
 怖い、と思った。何か、化け物が近づいてきている様な。意図せず、自分の足が、後ろへ一歩引く。

「人の死に感じる恐怖を見ない振りをして生きてきた君は、人の死を悲しむ事も出来ない。否、悲しむ事からすらも目を背けているんだろうね」
「…………」
「でもさ、其の侭では生き辛いだろう?例えマフィアを抜けたとしても、その能力は一生付いて回る。目を背け続けていては、結局その感情に何時か押し潰されるよ」

 だから、と太宰が笑い乍ら続ける。この笑顔が、怖い。
 聞きたくない、と思った。また一歩下がるものの、直ぐ其処は戸であり、逃げ場など無い。


「人を、殺してみれば良い」


 此方に近づきながら、太宰が云う。
「……何を、云って」
「奥に仕舞い込んでしまった感情を取り出すには、それが一番だよ」
 私の目の前まで来た太宰が楽しそうに此方を見下ろす。

 死神だ。この人は死神だ。それとも、悪魔だろうか。

「人の死を見た位じゃ、君は動じない。そんな風に心が固まってしまったからね」
「だから、人を殺してみろと?そんな莫迦な、話」

 恐怖からか、声が僅かに上擦る。自分が僅かに震えて居る事に気付いた。

「大体、貴方には関係の無い話でしょう。私が如何生きようが」
「そんなつれない事云わないで欲しいなあ。私を、その手で死なせてくれって云っているのだよ?」

 ―――『死にたい』。それは今まで何回も太宰の口から聞いた言葉だ。それなのに、今響く言葉は今まで以上に私に迫る。

「君と、君の桜を見た時、なんて美しいんだろうって思ったよ。君に殺されるのなら、どんなに良いかと」
「……私では殺せない。貴方は異能を無効化する」
「うん。だから、君が、直接、その手で殺してくれれば良い」

 何処か恍惚とした表情で太宰が云った。其の侭私の手を取り、自分の首を掴ませる。振り払おうとしても、まるで枷でも嵌められたかの様に動かない。

「私を殺してみてよ。そうすれば君も息をし易くなるだろう。この世界で」
 乞う様な声で云われる。何かを云おうと思った。でもそれは言葉にならない。
「私が嫌いなんだろう、出会った時から」
「…………」

 嫌い。嫌いではない。苦手だっただけだ。死神の様なこの人が。

 出会ってから、事有る毎に、自分に構ってくるこの人が、苦手だっただけだ。然し、其れを云ってもこの人にはおそらく通じない。

「今じゃなくても良いさ。もっと私を嫌いになって、何時か私を殺してごらん」
「…………何故」

 やっと出た声は掠れていた。然し訊かなければならない事があった。

「こんな事をしなくとも、貴方は自分で死ぬ事が出来るでしょう」
「そうでもないよ。私の自殺未遂、少なくないって知ってるだろう」
「でも他人に殺してもらおうなどと思っていない。現に今も」
「…………」
「―――私に殺されようなんて、思っていない」

 確信があった訳ではないが、外れてもいないと思った。兎に角、何かを云いたかっただけかもしれない。太宰は沈黙すると、己の首に宛がっていた私の手を静かに離した。

 少しだけ、ほっとしたのも束の間―――私の体は後ろの戸に押し付けられた。背に戸が当たり鈍い痛みが奔る。

「――――っ!?」
「…………そうだねえ」
 彼の顔には影が差し、表情がよく見えない。然し、笑っていると思った。

「君が人を殺せるようになるなんて思っちゃあいないさ。でも、先刻までの話は本気だよ?」
「……でも」
「私を殺してもらうには」
 不意に体が浮いた。天井が目に這入る。

「!?」
「君に、もっと私の事を嫌いになって貰わないと」

 軽く抱き上げられたのだと気付く。少し移動した処で不意に離され、背に柔らかい感触と軽い痛みが奔る。
 ソファの上に押し付けられた、と判ったのは、自分の上に伸し掛かる太宰の顔が見えてからだ。

 その顔は、ただただ嗤っていた。楽しそうに。子供の様に。

 両手首が頭の上で、男の片手で簡単に固定される。もう一方の手が腰を撫でて行き、何か得体の知れない感覚が全身を駆け巡った。

「ねえ?名前。こんな事されるのは初めてでしょ?」
「い、や……だ、やめてください、離し、て」
「嗚呼……良いねえ、その表情も―――私の物だと錯覚してしまいそうだ」

 こんなに恐怖を感じるのは初めてだった。何をされるのか判っても逃げられず、自分の襯衣のボタンが無理に外される微かな音を聞き―――私はただ、強く目を閉じた。

(2016.12.19)
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