ここから始めよう(1/2)

アッカンベーカリーの閉店作業を終えた私は、疲れた体に鞭打って、帰る支度を始めた。

今日もよく働いたなあ、と思いながら、制服を脱いでいく。全部着替え終わってから、ふう、と一息ついた。

手元には売れ残ったクリームパン。今日も今日とて遠慮なくいただいた私は、一瞬ここで食べてしまおうかと峻巡する。けど、最終的には景太にあげようと思った。

こんな時間に間食したら太る。
家に帰ったら夕飯が待っているのだ。

女子高生のダイエットは年中無休が通常営業。景太はまだ小学生の男の子だし、食べても平気だろう。空腹に折れそうになる心に叱咤して、私は立ち上がった。


「お疲れさまでした〜。お先に失礼します」
「お疲れさまー!七海ちゃん、明日お休みだったよね?ゆっくり休むんだよ!」
「はい、ありがとうございます」


店長から手を振られて、私は頭を下げる。そう、明日はバイトが休みなのだ。久しぶりに出掛けようか、それとも家でゴロゴロしようか…そんなことを考えながら、私はお店を出た。街灯と家の窓から漏れる光以外、辺りは真っ暗だ。携帯で時間を確認すると、既に8時半を過ぎていた。


「やっぱり毎日入れると疲れるなあ…」


普段私は学校帰りの夕方から閉店までの時間をシフトに入れることが多い。けれど、夏休みの今は、ほぼ毎日お昼過ぎからラストまで働いていた。
欲しいものがあるわけではないが、部活もやっていない。ただ長い夏休みを有意義に過ごすために自ら入れたのである。

…まあ、そのせいで弟の景太にはぷりぷりと文句を言われたけど。

そろそろ本格的に姉離れを進める必要があるかもしれない。もう五年生なのだし、姉は必要ないだろう。いや、それはそれで悲しい。やはりしばらくはこのままでいいか。うん。


「お腹すいた…早く帰ろ」


荷物を肩にかけ直す。少し足を早めた時だった。


「七海」


音にするならば、どろん。
紫色の煙がたって、それが晴れた頃、一体の妖怪が顔を出す。暗くても、ぼんやり光っているからよくわかる。それは、最近景太の友達になったという、オロチだった。


「…オロチ。どうしたの?」
「景太から聞いた。こんな時間まで働いていたのだろう?」


だから迎えにきた。

しれっとオロチがそう言う。まさかオロチに迎えに来てもらえるとは思わなくて、私はぱちぱちと目を瞬いてしまった。


「七海?迷惑だったか?」
「えっ!?ああ、ううん、そうじゃなくて…ビックリしちゃっただけだよ」
「そうか…」


ほっとした様子のオロチが、くるりと向きを変える。行くぞ、と声をかけられて私も止めていた足を帰路へと向けた。

ふわふわと私の半歩先を浮遊するオロチ。私はそんなオロチを眺めながら歩く。

オロチは他の人には見えない。
だからやたらむやみに外で喋ると、変な目で見られてしまう。でも、辺りに人の気配はないし、会話したって構わないはずだった。それでも私たちの間に、会話はなかった。

なぜなら、私は彼と、仲良がいいわけではないからだ。もちろん悪いわけでもないし、「知り合い」程度だというのが一番しっくりくる。
オロチは景太と友達だけど、イコール私も友達というわけではないのである。

ゆえに何を話したらいいのかわからなかった。とても気まずい。
そもそもなぜ迎えに来てくれたのか、疑問である。

しかし、いつまでも無言のままでは失礼にあたるだろう。
私は必死になって会話の糸口を探した。そんな私に助け船を出したのは、意外にも私を悩ませている当の本人だった。


「…明日も、働くのか?」
「え?あ、ううん。明日は休みなの」
「そうか…」


シーン、という静寂が私たちに下りてきた。ああ、気まずい。バイト帰りのこの道って、こんなに静かだったっけ。話も盛り上がらないし。困った。