君はわたしの心を知らない(1/2)

長く、バイトに明け暮れた夏休みが終わった。学校が始まり、まだ夏休み気分が抜けない私は、目の前で行われている古典の授業をぼんやりと聞き流している。ああ、つまらないな。夏休みが懐かしい…。
今日の授業はこれで終わりだが、午後特有のダルさがあった。現実逃避のために、まだ夏の様相を残す青空を、窓越しに見上げる。ふと、オロチのことが頭に浮かんだ。

実はこの3日ほど、私はオロチに会っていない。学校が始まることもあり、バイトの日数を少し減らしたのだ。基本的にオロチとはバイトの帰り道しか会っていないので、バイトがなければ必然と会う回数も減る。久しぶりに一人になったからなのか、私は、こうしてぼんやりとオロチのことを思い出すことが増えた。それが恋慕なのか、と聞かれればまだはっきりしないのだけど…。でも、何度も告白されている手前、これ以上引き伸ばすのも如何なものだろう。
私は、オロチのことが好きなのかな。改めて自問自答してみる。そして、「オロチ」という妖怪のことを考えてみることにした。

授業のメモを取るふりをして、私はシャーペンを握る。ノートの端に、「あばれ大蛇」「時々怖い」と、書いてみた。いや、確かにそうなんだけど、いきなりマイナス思考的な特徴はどうなんだろうと思い、上から二重線で消す。次に「毎回迎えに来てくれる」「優しい」「面倒見がいい」と書いてみた。うん、しっくりくる。それから私は、オロチの特徴をただ羅列した。「少年の姿」「かわいい」「マフラーかわいい」「かっこいい」「熱烈な告白」等々。あげていけば、どんどん出てくる。

「好き、かもしれない」そこで、私の手は止まった。にやけそうになる顔を隠すために、思わず机に突っ伏す。心配した隣の席の友人が「七海?」と小さく声をかけてくれたけれど、私はしばらく顔をあげることができなかった。


「百年に 老舌出でて よよむとも 我れはいとはじ 恋ひは増すとも。この訳、わかるやついるかー?」


しかし、先生の問いかけに、私ははっとして顔をあげる。机に突っ伏していたら、逆に当たってしまう可能性があるからだ。幸い、先生は気付かなかったようで、当たったのはクラスで一番秀才な男の子。彼はおもむろにたちあがると、「あなたが百歳になり 歯が抜け口元がおぼつかなくなり 歩くのも困難になっても 
嫌になんてなりません いっそう愛しくなることはあっても、です」。と、スラスラ回答した。
当たらなかったことに安心していた私だが、愛しい、という言葉に、ぴくりと反応する。とてもストレートなその歌は、今の私にはとても響いた。

この短い歌にこめられた、愛しい、という想い。どんな姿形になっても、一途に想い続けることができるという自信。ただそれが、私には眩しく、とても素敵に思える。そしてそれを、私は私に重ねた。

オロチは私を変わらず好きでいてくれるのだろうか。この歌を読んだ人のように、おばあちゃんになっても、オロチのことを忘れてしまうようなことがあっても。

彼は妖怪で、私は人間だ。私が先に年を取り、おばあちゃんになる。その間、オロチは何も変わらない。私への気持ちが冷めることはあっても、彼はずっとそこに在り続ける。
そして、私が先に朽ち果てるのだ。

私がオロチの立場だったら、耐えられるかわからない。そんな未来を、彼は望んでいる。

私はそれに、応えられるのかな。
そして結局また私の思考は振り出しに戻るのだ。


「万葉集の訳はテストに出すからな。よくチェックしとけよー。それじゃあ今日は終わり!」


いつのまにか、授業は終わりを迎えたらしい。

深く沈んでいた思考の海から、先生の言葉に引き上げられて、私は慌ててペンを取った。板書を急いで写す。殴りかいたような先程の恋の歌は、私の気持ちを表すように、不安定でよろよろしていた。



「七海〜?見てたわよ〜」
「え、な、何が…?」
「さっきの授業中」


終業のチャイムがなったあと、真っ先にやって来たのは仲のいいみっちゃんだった。ニヤニヤしながら、ちょうど先程帰ってしまった前の人の席にどかりと座る。しかも椅子の背凭れに腕をのせる形で。あんた女子でしょ、という突っ込む前に「で、誰のこと考えてたの?」と言われた。


「え、何、みっちゃんってば」
「誤魔化してもだーめ。授業中ニヤニヤしては顔赤くしたりして、どう考えても恋する乙女!って顔してたわよ」
「んな?!」
「何、何!七海ついに好きな人できたの?!」
「ちょ、しょうちゃんまで…!」


みっちゃんが大きな声でとんでもないことを言うものだから、仲のいい子達がわらわらと集まってくる。どうなのどうなのとつつかれて、私はあわあわするしかなかった。私だって、教えてほしいくらいなのだ。自分の気持ちがわからないのだから。


「や、あの、別にそういうことではなくて、ですね…!」
「怪しい!さっきノートに何書いてたの?好きな人の名前?ちょっとみーせて!」
「や、ちょ、だめだめだめ!」


みっちゃんが閉じたノートを開けようとしてくる。慌てて隠そうとそれを取り上げ、私たちの攻防戦が開始される。困った、こういうときの女子はしつこいのだ、と思っていたところに「天野さん」と声がかかった。


「え、あれ?佐々くん」


振り返った先にいたのは、クラスメートで同じ保健委員会に所属している佐々くんだった。若干顔を強ばらせながら、申し訳なさそうに立っている。そりゃ、この女子の勢いは怖いよね…。

「話してるところごめん、先生が保健委員会の関係で呼んでる」
「あ、うん。わかった。今行くよ」
「じゃあ、廊下で待ってるから」
「うん、わかった」


まさに助け舟!私はノートをしっかり鞄に入れて立ち上がると、ブーブーいっている仲良し女子たちに別れを告げる。「明日は絶対聞き出してやるからねー!」という恐ろしい台詞が聞こえ、思わず身を震わせた。

廊下に出ると、佐々くんは壁に寄りかかって何やら難しい顔をしていた。そんなに大変な仕事を頼まれたのだろうかと思いながら近づく。
「佐々くん、お待たせしてごめん!」と話しかけたところで、彼はようやくはっと顔をあげた。


「あ、ううん。平気。じゃあ行くか」
「うん。それにしても、先生何の用事だろうね?」
「…さあな」


そのまま黙り混んでしまった佐々くんに、気まずさを覚え、「この人こんなに話しづらい人だったっけ」と内心ごちる。
そういえば、オロチに初めてバイト先まで迎えに来てもらったときもそうだったなあ、と思った。黙々と歩いていると、今回も先に口を開いたのは相手側だった。


「天野さんは、好きな人、いるの?」
「え?!」


いきなりその質問?!
まさか佐々くんにそんな話を振られるとは思わず、焦って声が裏返ってしまった。何て答えたらいいものかアワアワしていると、彼は「ごめん、聞こえたから…」と言った。


「え、えーと…」
「…あ、悪い。デリカシーなかったな」
「う、ううん。だ、大丈夫…」


気まずい。余計気まずい。再び沈黙が落ちてくる。何とか話を変えなくては!と頭を働かせているところに、先に口を開いたのはまたもや佐々くんで。


「あの、天野さんってさ」
「う、うん?」
「アッカンベーカリーのバイト、今日も入ってる?」


思わず身構えていた私だったが、聞かれた内容は私のバイト先のこと。あれ、話したことあったかなと思いつつ、「入ってるよ」と頷く。隣に立つ佐々くんは、「えっと、」といい淀むと、「今日、行ってもいいか?」と言った。


「え?お店に?」
「は、母親に買い物頼まれてて、さ!」
「そうなんだ。もちろん、ぜひ買いに来てよ!」
「お、おう…!」


何だ。佐々くんはこれが聞きたかったのかな。アッカンベーカリーはさくらニュータウン一美味しいパン屋なのだから、私に遠慮せず来たらいいのに。…それともクラスメートが働いていたら、買いに行くのは気まずいのだろうか。確かにそんなに仲良くなければ、なるべく避けたいかもしれない。今まで考えたこともなかった!


「あの、ごめんね佐々くん。私がいたら買いに来にくいよね…」
「え!ち、違うから!そんなんじゃ、ねーよ」
「そう?それならいいんだけど…」
「とにかく、今日行くから。閉店ギリギリに」
「え、帰り道じゃなくて?」
「ああ。…とりあえず、早く委員会終わらせるぞ」
「あ、うん」


これ以上は話さない、と暗黙の了解で言われた気がして、私はまた黙るしかなかった。ただ佐々くんは少し機嫌が良くなったようで、初めの気まずさを感じさせないようにポンポンと喋る。

まあ、いっか。

とりあえず委員会が先だな、と私は気を引き締めたのだった。