『正しき怒りの権化』
 義兄はギチギチに拘束されて汗を流し、俺は畳のうえに土だらけの病院のスリッパで棒立ちしている。

「おまえがやれ」

 衛はと言うと、いつもの笑顔だ。ただし目は据わっている。その目の中に、見たこともないくらい静かでどす黒い怒りがぐらぐらと煮え立っているのに俺はようやく気が付いた。無理矢理閉じ込められて、圧縮され押し込まれ今にも皮膚を突き破ろうとする、爆発寸前の怒りが。その収まりきれない怒りが染み出し、気化し、空気をギシギシ軋ませながら伝わってきて俺の背中の火傷に共鳴する。爆発すれば、衛はきっと平気でやる。普段ヘラヘラしてるから忘れがちだけど、俺はこの三年間で身に染みている。平気でやる、なんだって。数人がかりで止めたって、たったの数秒でクチャラー先輩は歯を二本折られた。衛はひとたび爆発した怒りを宥め窘め昇華するためなら、なんだって、良心の欠片もなく平気でやる。良心なんかのために、世間体なんかのために、自分の怒りを歪めるようなことはしない。もっともありのままの、正しい形でこの世に投下する。今この瞬間爆発していないのは奇跡だ。今この瞬間爆発を押し込めているものこそ、普段蔑ろにされているその良心だ。

「やらなきゃお前は一生変わんねえ。一生そのままだ。やれ。簡単だろうが」

 そして、その怒りは少なからず俺にも向けられている。怒りを殺そうとした俺に。入学式での俺の幼稚な怒りにたった一人意義を見いだした衛が、そんな真似、許すはずもない。

「俺は我慢した。お前が平気だって言ったからな、俺だってそのくらいの分別はつく。今はどうだ?まだ平気か?次は何を差し出すんだ?いつまで続ける?死体になるまでか?」

 衛は終始落ち着き払った低い声で、しかし自分の口から出る言葉に感化され、次第に本格的に怒りに飲まれて行くのがわかった。衛がその、義兄の襟首を固く掴んで今にも張り裂けそうな白い拳を何かの禁断症状のように震わすたびに、猿轡まで汗で濡らした義兄がかすかに呻く。どこか折れてるんじゃねえの。顰蹙なくらい他人事に、俺はそんなことを思った。ギチギチに拘束されてデストロイ衛に首根っこ掴まれてるという自分に置き換えてみたら誰だってチビっちゃうような危機的状況とは言え、この季節には尋常じゃないくらいの汗じゃねえ?ふん縛るときに衛が手加減しそこねて折って、それでも衛の中では『我慢した』うちに勘定されているのかもしれない。そんなんで我慢しなかったら、どうなるのだろう。このどす黒く濁った怒りは。俺のせいで、俺のために抑え込まれ不気味に膨張した衛の怒りは、あとほんの少しの刺激だけで爆発する。

「もういいだろ?虫酸が走るんだ、お前にここまで好き放題するコイツにも、怒りなんか感じてないふりしてるお前にも。今にもキレそうで、もう、頭が、ホラ、おかしくなる。でもお前のためだ、あと一回だけ我慢してやる、お前のためだからな」

 衛はほとんど譫言のように「お前のためだ」と繰り返す。あるいは自身に言い聞かせ、宥めすかすように。入学式での俺の幼稚な怒りにたった一人意義を見いだした衛は、俺に失望しかけている。でも衛、俺だってそうだよ。俺自身に失望している。お前の嫌いな、あるいはお前の理解できない健気で愚かな一年に及ぶ自己犠牲は、結局自己満足すら連れてこなかった。でも、それすら差し置いて今、胸を刺すのは、お前が、衛がまだ俺に失望したくないと思っていることだ。そして俺もまだ、この期に及んで俺自身に失望したくないと思っている。どうしたらいい?どうすべきだ?

「何をやらなきゃいけないかわかんないか?そんなわけないよな。だってお前はずっとしたいって思ってる。ならやれ。わからないふりをするな。やれ。今すぐ。やらなきゃお前は一生そのままだ。一生その背中の火傷に支配される。お前がちゃんとやるならお前のために我慢してやるって言ってんだよ。ほら。やれ」

 俺のほうへ押し出すように、衛は義兄を突き放した。義兄は無防備に肩から落ち、鈍い音を立てる。その、この部屋の畳に身体を打ち付ける音は俺の身体の骨を伝って響くものだ。それが事実だ、昨日までの。こんなに惨めに見えるものか。いや知ってるけど。見えるよりももっとずっと惨めに感じられることも知っている。
 ふいに昨日までのすべての惨めさがぶり返した。昨日までのすべての死にたさ、昨日までのすべての痛みと快楽、昨日までのすべての猛烈な死にたさ、痛み、惨めな快楽、すべての怒りが。怒りを殺せば俺という存在は限りなく無に近づく。惨めな痛み快楽死にたさ、すべて無かったことにできる、その一瞬は。でももしある日突然怒りが息を吹き返したら?実は死んでいなくて、俺の心臓の裏のあたりでずっと、なまぐさい呼吸を続けていると気づいてしまったら。いつの日か、あるいはこれから訪れるすべての明日、この部屋で存在を殺し続けた自分の健気さを悔いて呪うことになったら。きっとそうなる。それで生きていけるのか。そのままで、俺は生きていけるのか。妙につっぱるようになってしまった背中の痕を気にしながら。それは昨日までの一年間と何が違うのか。自分自身に失望したままで生きていけるのか。
 行動が必要だ。何か、昨日までの愚かな健気さを帳消しにできる行動が。

「、はる」

 それは衛しか呼ばない俺の呼び名だったが、衛の声ではなかった。猿轡に唇と舌を固定されると母音がアの言葉以外はうまく発声できなくなる、結果、ちゃんと聞き取れたのが偶然それだけだったというだけの話だ。義兄が顔を上げる。目が合う。その瞬間、俺と義兄以外はすべて消し飛ぶ。衛の存在さえ遠く遠ざかり、俺と義兄以外がこの部屋の闇に沈み込む。正気じみた義兄の目。恐ろしいことに、宵宮の記憶と寸分違わない正気じみた義兄の目。
 姉弟は所詮姉弟だ。姉ちゃんが不幸になると思って、俺は義兄との事実を耐えて受け入れて無かったことにした。姉ちゃんはそんな俺を知りつつ、受け入れて無かったことにしていた。義兄が幸せにしてくれると、まだ信じたかったから。もし、明日からも俺たちがそのやり方を貫けば、昨日ほどの事件だってなかったことにできるだろう。無かったことに。表向きは。そうして俺は背中の火傷と義兄の正気じみた目と姉ちゃんのハリボテの幸せに支配される。
 どうして。
 怒りが息を吹き返す。
 どうして俺なのか。
 どういうつもりで黙っていたのか。
 宵宮の記憶。
 この部屋に何かを押し込める姉の笑顔。
 どうして、どうして。
 でも答えないでくれ。
 どんな答えでもきっと俺は耐えられない。
 どんな答えでも俺は、ズタズタにされて今度こそ生きていけなくなる。
 義兄が再び口を開く。やめろ。汗にまみれた正気じみた目。いかにも正論を吐きそうな、父親のような。宵宮の記憶。俺を犯して、痛めつけて、喉骨と命を弄びながら愛してると囁いた。姉の黙認の理由。猿轡に固定された唇が無理矢理開く。やめろ。喋るな。そのままで生きていけるか?やめろ。自分自身に失望したままで。喋るな。正気じみた目。やめろ、やめてくれ。一生このままだ、みすみす焼き印すら許して、帳消しにしなければ一生このままだ。今ここで、トドメを刺されてしまってはダメだ。やめろ、何も言うな、二度と、俺に何も、言うな。

「うッ!」

 気づけば俺は怪我人とは思えない俊敏さで部屋を横切り、義兄の顎のあたりを殴り飛ばしていた。硬い顎の骨と、唇の下の肉越しの歯並びの感触が、指の骨を突き抜け手首の軟骨に吸収される。猿轡のせいで常時開きっぱなしの義兄の口から、ゴパッだかパゴッだか、とにかく変な音がする。それはキレた衛のいる風景にはつきものの音でもある。俺の放ったバックナックルは奇跡的に綺麗に決まり、そして義兄を黙らせることに成功し、そのうえ昏倒させた。…え、大丈夫コレ?死んでないよね?大丈夫だよね?白目剥いてるけど。その憎たらしいほど綺麗な白目を眺めているうちに頭に上った血が引いていくように視界がひらけ、傍に衛の気配が戻ってくる。衛は手をパーの形に開いたまま尻餅をついていた。どうも義兄を殴る勢いで俺が突き飛ばしたらしい。ごめん。衛は少し驚いたような珍しい表情をしていたが、俺と目が合うと肩を竦めた。
 お次は?
 イヤイヤ、イヤイヤ。
 行動が必要なんだ、これから二度と支配されずに生きていくための行動が。

「いや、そういうのはやんない、逃げる」
「いややってるけど?すでにやってるが?プロかよ、すげえ綺麗に一撃で」
「逃げる、ぜんぶから逃げる」

 自分の愚かな健気さと、それを強要するすべてを帳消しにする行動が必要なんだ。怒りでノアの大洪水のごとくすべてを一掃するのも手だが、俺には俺のやり方がある。

「逃げるってどうすんの」
「とりあえず最低でも県外」
「学校は?」
「やめる。学校も内定も全部、コイツも、ね、姉ちゃんも、全部、途中で投げ出して、逃げる。もう二度と戻らない、二度と会わない、二度と」
「住むとことかどうすんの」
「どうにでもなるだろ、いざとなったら金持ちオッさんのチンコでも咥えるわ」

 ブッと噴き出した衛がそのままツボって咽せた。ホントにね、そういうことに抵抗がなくなったことだけは感謝してるわ。いや感謝はしてないわ。でもまあ趣味が広がるのはいいことでしょ。うわあどう言っても残念に如何わしい感じになるわ。

「チンコから逃げるためにチンコ咥えてたら意味なくねえ?」
「ハア?言ったろアナルセックス自体は悪くないって。俺が逃げたいのはコイツのチンコだけだから」

 また噴き出してドツボにハマった衛が呼吸困難に陥る。一生笑い死んでろ。俺を不幸のどん底に突き落とせるのは、今そこで白目剥いて昏倒してる義兄のチンコだけだ。その他の有象無象のチンコがどれだけ束になってかかろうがチンコごときが俺を不幸にできるものか。束になったチンコって光景がすでにギャグだし。ていうか何、この頭悪さマックスな会話。

「でも、どうにもならなくなったそのときは」

 俺は今から逃げる。これ以上耐えも受け入れも甘んじもしない。ここで幸せになることに見切りをつけて、すべてを見捨て投げ出して逃げる。卒業まであと何週間と残ってない学校も、優しい教師陣がなんとか見繕って押し込んでくれた内定も、姉ちゃんすら、見捨てて逃げる。ひどい生徒だろう、ひどい弟だろう。でも、約束する。三崎衛、俺の正しき怒りの権化、約束しようこの先何があってもお前だけは見捨てないと。

「助けに来てくれ」
「…ふははは!あーあ、最高だなハルくん」

 …今のそんな笑うとこだった?ひとしきり笑った衛は、俺の額を小突き言った。「よし、許してやる」と。なにがじゃエラそうにこんにゃろ!という気持ちと、純粋に良かったという気持ち。別に幸せでなくなって、許してくれる人がいれば、こういうふうに存在を許してくれる人がいれば生きていけるのかもしれない。どこでだって。
 ふいに伸びていた義兄から呻き声があがる。そろそろ覚醒するらしい。もう一生気絶しといてくれたら万々歳なんだけど。さて。行動が必要なんだ。何もかも見捨てられずに思考停止した昨日までの俺を帳消しするために、何もかも見捨てて逃げるという行動は確かに良いかも。でも。

「やっぱチンコだけでも殺しといたほうがいいよね…」
「マジすか阿部定いっちゃうんすか、狂ってんなハルさん」

 お前に言われたくない。それに阿部定だと俺のほうが未練たっぷりみたいになっちゃうからダメだろが、チンコ切り取るとかフツーに無理だし、グロいの無理、気絶しちゃう。
 スリッパ履いたままの足で義兄の脚を蹴り開く。阿部定はムリ、ムリだけどさ。俺を不幸のどん底につき落とせるのはこのチンコだけだ。俺はこれから逃げる。なら、不安要素は潰しておいたほうがいい、タマだけに。…背中の代償だ、タマくらい潰しても、まあお釣りは来ないかもしれないけど、イーブンくらいじゃね。

「おっマジで?」
「ま、マジで」
「ビビってんじゃねーか。つーかタマ潰したところでチンコは勃つんだよ?」
「べつに、」

 なんでそんな知識あんの?つーか、そういう理屈じゃなくて。それこそ俺の気持ちの問題でしかないんだけど。

「タマ無しって分かってたらなんにも怖くないだろ」

 これぞ暴論。俺は脚を振り上げ、そして覚醒しかけた義兄は再び昏倒し、衛の最高に楽しげでゲスい笑い声が響く。



 クソ田舎の満天の星空の下、ステキな冬の夜半の空気、今日限りでサヨナラする家の庭、まろび出た俺は半ばパニック、笑いの沸点が超絶低い衛はドツボにハマって最早喘いでいる。

「ヤバイ、ヤバイ!やっちったよ!」
「うははははは!」
「感触が!すげーヤダ、もう、これ、もうヤダ!なんこれ!」
「ひーっ!うははははは!」

 病院のスリッパって、普通に室内用でうっすいもんだから思ったより感触が、ゴールデンボールが潰れる生々しい感触が、足の裏にあああああ。ヤダもう早急に忘れたい早急に消えてくれ。半ばパニックの俺は足をズリズリ地面に擦り付ける。

「うーヤダ、はあもう、背中痛くなってきたし、うあー!」
「フッフフッ、ハルくん、落ち着け、ヒヒッ」

 お前が落ち着け。いや俺も落ち着け。確かにスッとはした。義兄のゴールデンボールを潰してやっと、完全に解き放たれた気になれた。でも大変なことしたのもわかる。だってタマだよ?タマ潰されたらどう思う?それで興奮している。血液の巡りが異様に良くなって頭に血が上り、マトモじゃなくなってるのが自分でわかる。でもどうしようもない。背中も痛いし、多分今めっちゃ体温上がってる。息も吸ったか吐いたかどっちだかまどろっこしい。でも逃げないと、さっさとズラがらないと。衛がヒィヒィ言いながら寄ってきて背中をさすってくれるけど、触られたら逆に痛いわけだが?やめてほしいわけだが?

「ヤバイ、やばばい、逃げないと、さっさと、とりあえず駅どっちだっけ?ヤバイ、わからん、背中、痛いし、やば、これ」
「ハルくんいったん落ち着こう?な?」
「ムリ、おちつけられらない、とりあえず逃げないと、」
「ハル、落ち着け」
「ヤバイ、どうしよ、どうし、」

 ぐいっと頭を掴まれる。なおももたもた暴れる俺の鼻を手癖で摘んだかと思うと、衛は俺の口を塞いだ。口で。マウストゥマウス。ホントに人工呼吸めいて口を口で塞ぐ感じの、しかしれっきとしたキス。鼻と口を塞いで空気の出入りを断てば声は出ない。衛が教えてくれたことだ。昨日までの俺が、あの部屋で縋っていた教えだ。
 ゴールデンボールパニックが一瞬で塗り替えられ、完全に頭の中が真っ白になった。無。喉の奥で縮こまって痙攣する俺の舌を、衛の舌がちょんと小突く、からかうように。それで俺はやっと、全身をこわばらせている不自然な力に気付いて脱力した。

「…落ち着いたかよ?」
「…いや落ち着いたけど、もっとなんか他の方法あるだろ…」
「怪我人殴れないだろ」
「殴るのと二択なの??つうかお前がそんなの気にするタマか」
「ちょっと!さっきの今でタマネタはやめて下さいよ!マジでひゅんひゅんするから!」

 それこそ気にするタマかよ。タマって、俺もちょっとしばらくトラウマワードになりそうだけど。やばい感触がよみがえる。もうヤダスリッパ脱ぎたい。怪我人殴れないって言ったわりに、衛はなぜか俺の腹のあたりを軽く殴り、すっかりいつもどおりにヘラヘラしている。「その服で逃亡しても絶対近いうち凍死するし」って、指摘されてなるほど確かに。衛から借りたダウンジャケットの下は病院の寝間着に素足スリッパだ。完全に病院からの逃亡者ファッションだ。死にはしないまでも確実に職質・連行される。

「とりあえず着替え取ってくれば、まったく、人のタマ潰しといてザ・無計画だな〜」
「いやだってさっき思いついたんだもん。…また家入るのか…萎えるな…」
「俺がハルちゃんのパンツとか取ってきてあげようか」
「やめろ馬鹿野郎」

 マジで馬鹿野郎。それにうっかり衛をまた義兄に近づけてカッときてトドメでも刺されたらと思うとそれこそマジで御免だ。誰だって親友に殺人犯にはなってほしくない。仕方なくたった今まろび出た家を振り返る。姉ちゃんと二人で暮らした家、三人で暮らした家、いつも薄暗く、三人でも広過ぎる家、これからそのすべてを切り捨てて、逃げ出す家。

「ハルくん」

 呼ばれて振り返ると衛は離れた位置でポケットに手を突っ込んで笑っている。俺にダウンジャケット貸してるからそこそこ寒いんだろう。歯なんか見せちゃって、かーわいい。そんなふうにも笑うんだ、意外。

「頑張ったね」

 からかいでもなんでも無いふうにそんなことを言うもんだから、うまい返しも思いつかない。お前のおかげだバーカ、なんてことはわざわざ言うことでもないので、俺はただ笑ってこの家にお別れを始める。
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GFD