18の夜
 目覚めた途端眼球を突き刺してくるのはどぎつい白色蛍光灯の光。鼻腔を突き刺してくるのはステキな消毒用エタノールの香り。胸から背中にかけてなんだかゴワゴワするのは、看護師のお姉さんが包帯を巻き巻きしてくれているから。目がパッサパサなのと蛍光灯がギラッギラなので視界が心許ない。耳もまだ半分以上眠っているらしくワンワン戦慄くばかりでよく聞こえない。それでも十中八九衛っぽい人影が、十中八九お医者さんっぽい人影に十中八九問い詰められているのがなんとなく気配でわかる。十中八九なにがどうしたらこんな火傷をするのか問い詰められているんだろう。そして十中八九衛がいつものよくわからない笑顔でヘラヘラかわしているのがイヤでも想像つく。いやヘラヘラしてんじゃねえ。ちゃんとテキトーこいて誤魔化してくれや。完全に疑念溢れるまなざしを集めている気配がビシバシなんだけど。お医者さんが何言ってるかははっきり聞こえないけどピリピリパリパリした空気はひしひしと伝わってくる。そりゃこんな夜中にこんな高校生のガキがこんな事件性のある怪我してきたら、まともで責任ある大人ならピリパリもするというものである。まともな、まともな大人なら。衛、テキトーにごまかせって、ヘラヘラしてんなもう使えねえな、って俺までイライラしてたら「でもねえ、場合によっては警察にも連絡しないとだからね」なんてありがたいお言葉が一瞬クリアになった耳に飛び込んできて、焦った俺は休眠モードを無理矢理振り切って怒鳴った。

「だからただのそういうプレイだっつってんだろが!!!」
「プレイなら尚更思いやりと加減がなきゃダメでしょうが!!」

 俺の恥ずかしい怒号、お医者さんの正論オブ正論、衛のドツボにはまった笑い声、ドン引きの看護師のお姉さん。ここは地獄か。
 怒鳴るだけ怒鳴って力尽きた俺はスウッと気持ちよく意識を失いながら「で?君が相手なの?」とキングオブ正論ことお医者さんがさらに衛を問い詰める声を聞いた。ちょっと、爆笑なんだけど。やめてくれマジで。なんで衛とそんな文字通り焼け爛れた関係になんなきゃなんねえのよ。おい、頼むよ衛、ちゃんと否定しろよ、なにドツボにはまって爆笑してんだ、ヘラヘラしてんじゃねえ殺すぞ。


 それからはぼんやりと、昏睡と微睡み程度の覚醒を繰り返した。病室っっぽい部屋でストレッチャーじゃない、ちゃんとしたベッドに寝かされて、でもうつ伏せにされて息苦しい。うつ伏せ寝とかしねえし、ねじ伏せられる感覚を思い出して胸糞悪い。瞬きのつもりが目を開くと外が明るみ始めている。寝返りを打ちたいけどダメだ、行動に移す前に意識を失ってしまう。ベッドに四肢と顔の右半分が埋もれてめり込んでしまって、もう少しも動けない。
 ふと人の気配がした。気のせいかも。あるいは夢かも。わからないけど。誰かに髪の毛を撫でられた気がして。気のせいかもわからないけど。すごく懐かしい。たぶん、物心つく前にしてもらったことに似ている。うまく言えないけど、そもそも俺は目覚めていなくて、夢の中かもしれないけど。義兄とは違う。すごく懐かしい。すごく好きだった。好きだった?今は?今は違う?いや、違わない、違わない、違わない、はずなんだけど。

「ごめんね」

 か細い女の声。それも聞こえた気がする程度。何もかもが朦朧としている。俺の最も無意識に近いところにいる何かが、もういい、って言ってくれている。もういいよ、もう、しばらくは、何も聞かなくたっていいんじゃねえ?って。どうして?聞きたいよ。気になるじゃん。ごめんねだって。病院だし、ありがちなセリフだし、もしかしたら幽霊かも。なんて。

「知ってたの」

 姉ちゃんの声。俺の無意識の淵の何かが勝ち誇る。ほらな。勝ち誇って涙を流しているのがわかる。ほらな、聞かないほうが良かっただろ、って。知ってたって。いったい何の話だ。いや、そもそもこれは現実じゃないかもしれないけど。気のせいかも。夢かも。そんなに逃げようとするなら、俺自身である何かが勝ち誇る。最初から逃げときゃ聞かずに済んだ。
 笑える、爆笑、くそったれ、いや、髪を撫で続ける細い細い指の感触もか細い嗚咽も、夢に決まっているんだけど。可哀想に。惨めだな、最高に。朦朧とする意識の中で、もうしばらく何も聞かなくていいぜ、今度こそ俺の言うとおりにしろよな、って、無意識の淵にいる俺が、すなわち15歳の、入学式のあの瞬間の俺が、涙を流しながら勝ち誇る。




「お嬢さん、起きろ」

 ようやくハッキリと目を覚ますと外は再び真っ暗だった。壁掛け時計は真夜中の12時を指していて、おそらく病院の面会時間なるものは余裕で過ぎている。そして激寒い。開け放した窓から差し込む月明かりのほかは真っ暗な病室に、衛は当然のようにニヤニヤ突っ立っている。

「窓から入った?」
「窓から入った」
「そのお嬢さんって言うのやめろ」
「わかったお嬢さん」
「ファック」

 一階だしセキリュティは皆無だしで不法侵入もわけない病室だけど。あははって心底楽しそうに衛は笑う。何か不気味感漂うテンションの高さだ。俺がうつ伏せにめり込んでいるベッドの脇に立ち、鼻を摘んでくる。いや、鼻は折れてないけど?背中しか怪我してないけど。相変わらず痛みが薄いのは、今度は痛み止めのおかげだろう。衛のそのタッパに見合った無骨な手指が頬を、髪を撫でていく。父親に触れられたらこんな感じだろうかなんて馬鹿でキモいことを考えたのは実は初めてじゃないんだ。よりにもよって衛に。サイコパス衛に。ハルク衛にそんなことを。でも衛はたまに、本当にそんなふうに俺に触れる。

「俺はお前といると自分が人間だって思い出すよ」
「え?待って、普段は自分のことなんだと思ってんの?」
「え?人間だけど?」
「え?何言ってんだコイツ」

 何言ってんだコイツ、衛サマかな???

「起きろハルくん、寝てる場合じゃねえだろ」
「すげえ寝てる場合だと思うけど、怪我人なんだけど」
「まあまあ、良いモノやるから、ついてこい」

 衛の言う良いモノって悪い予感しかしなくない?なんて真っ当すぎる感想はちゃんと浮かんだ。浮かんだけど。大して悩みもせず、俺はのそのそ起き上がり、衛の手を取るのだ。空になったベッドに気づいたら、あのキングオブ正論ことお医者さんは真っ当に呆れかえるだろう。彼のことは嫌いじゃないから、呆れられると思うと3ミリくらいは胸が痛むけど。あの人は、ああいう大人は、15歳の入学式のあの瞬間、理由もない怒りから醒めた俺がなりたかった、なれたらいい、ならなければと思い描いた大人だから。でも俺は衛の手を取る。14歳の俺がなりたかった衛の手を取る。よろよろと窓枠を乗り越えて、スリッパで地面に立って星空を見上げる。無数の星、数多の星々も世界のほんの一部だ。無限の星空。
 一年以上ぶりくらいに、自由になった気がした。

「乗れ」

 垣根の陰に停めた原チャにまたがりながら、衛が背を指す。いよいよ15の夜じみてきた。盗んだバイクじゃないけど。じゃないよね?衛のだよね?さすがにね?つうか俺、寝間着なんだけど。どこまで行くんだか知らないけど原チャで夜風に吹かれたら凍死するんじゃないかな?

「背中冷えてちょうどいいんじゃね?」
「ハイそういうこと言う〜昨日の今日でよくそんなえげつないボケかませるな?ホントデリカシーねーな?」
「冗談て、冗談じゃないすか」

 笑いながらダウンジャケットを脱いで貸してくれる衛は、確かに人間じみているなと思った。


 星空の下、クソ田舎のあぜ道を原チャで2ケツしながら。俺は最後かもなと思った。衛とこういうふうに過ごすの、最後かもなって。いちばん寒いこの時期を越えたらすぐ春だ。衛は進学し俺はここに残る。だから気になることは聞いておこうと思って、とはいえ熟考の末それかよって感じだけど。でもこのまま気になり続けたらマジでイヤだし。

「衛ってどんなセックスしてんの」
「だはは!え?なぜ今?それ聞いちゃう?」
「だってどんなセックスしてたらヤリ捨てられるか気になるじゃん。でもこのまま死ぬまでお前セックスなんか気になり続けたら人生の汚点感ハンパない」
「やばいよ、汚点扱いされてるよ、ちょうむかつくよ、フッフッフッ」
「教えてくれ、ちなみに俺はアナルセックス」
「やめてー!笑い死ぬ、ハンドル切り損ねる、ひー!」

 いや確かに捨て身の自虐ギャグだったけど。そこまでツボられるとフツーにめちゃくちゃ腹立ってくるわ。ハンドルがくがくしてんじゃねえよ、誰がお前と心中するか。やっぱデリカシーないよね。衛くんデリカシーないよね。いや、俺の質問も十分デリカシーないんだけど。

「ん〜首締めセックス」
「えっ、最低!ぜんぜん良さがわからん、何が楽しいわけ?そりゃ振られてろだわ」
「いやこれがなかなかね…って冗談だよ、誰が教えるか、一生気になってろバーカ、うはは!」

 冗談かねホントに、と俺はジットリする。コイツならそんな性癖ありかねない。たとえそのご大層な顔だけだとしても、好きって言ってくれるような女子の首を絞めるような奴は一生振られ殴られ続けてろって感じである。まあ冗談だっつってるし、冗談ってことにしとくけど。

「ちょっと、冗談だって、信じてるでしょハルちゃん、冗談すよ?」
「真実味ありすぎる。すげえ想像できるもん」
「想像すんな、やめろ恥ずかしい」

 驚いた。恥じらいとかあんのコイツ。そっちのがよほどショッキングだわ。



 そうしてこれも冗談の延長か?かくして衛が原チャリを停車させたのはまごう事なき俺の家の前だった。内情はともかく表面上は、今日も今日とてがらんと静まりかえっている。灯りもついていない。誰もいないのか。昨日から、いったいどういう状況になっているのだろう。この家の中は、彼らは。ふいに背中が鮮烈な熱さを訴えた。一瞬だけ。ゴワゴワした包帯の感触が急に生々しく感じられる。じわりと、薄い汗の膜が身体を覆うのがわかる。脚が竦みかけるが、衛がそんなこと許すはずもない。俺の肩を強く抱きよせ、怪我人か聞き分けのない子供を連行するように、有無を言わさず歩き始める。がらりと開け放たれ、真っ暗な口を開けたあの部屋に向かって。

「俺は言ったよな。お前が掃除用具入れにヘドバンかまして流血したあの日、『もう二度とキレるの我慢しない』って。あれはウソだ」

 いけしゃあしゃあと。俺の額にうっすら残っている傷痕をかすめるようになぞりながら。もう片方の手は俺の肩をがっちり抱いたまま、歩みが止まることはない。

「こんなに我慢できたのは初めてだ。言ったろ、お前といると自分もちゃんとした人間なんだって思い出すよ。愛してるぞハルちゃん」

 なんて熱烈で不穏な告白か。不穏すぎてやめろ気色悪いなんて返す余裕もない。衛の手に掴まれてるあたりのダウンジャケットがぎちぎち音を立てた。我慢ついでに肩を粉砕されるくらいなら遠慮なく発散してほしい。もう、その誓いも意味がないものだし。衛のその誓いは、俺の「姉ちゃんには知らせないでくれ」という前提条件に基づいたものだ。姉ちゃんは知っていた。今となってはもう、どれも、これも、笑い飛ばされる程度の重さしかなかったことがわかってしまった。だから嘘だって構いやしない。何の重みもなかったのだから。そうだろ?そういうことだよな?違わないよな?衛。

「ずっと一緒にいてくれ」

 冗談のような声音で、俺の耳に囁いて、衛は縁側にダンッと脚をかけた。もちろん土足で。オイ、俺んちだぞ。とは思うものの、俺も衛に強制連行されているのでつられて半土足と化した病院のスリッパで自分んちに上がり込む。衛は俺を離し、どすどす畳の上を歩いていく、土足で。オイオイオイ、強盗か。そんな些細な雑念は、ようやく部屋の中の暗闇に目が慣れ始めてどうでもよくなる。

「ハル?もういいよな?」

 それはどういう意味だっただろう。その意味を、俺は思い知らなければならない。この部屋に俺は存在しない。姉ちゃんの秘密が押し込められた部屋。義兄が俺を犯す部屋。逃げることも戦うこともせずに、ただこの部屋にいる自分の存在の消滅だけを思い浮かべる部屋。片隅に年代物のストーブが冷えて鎮座している。ちょうど真ん中あたりの畳に、昨夜俺が齧り付いて暴れた痕がえぐれている。その、えぐれた傷のすぐ近く。いつもの笑顔で突っ立っている衛の足元に転がっているモノ。いや人、いや、義兄。銀縁のメガネは転げ落ち、四肢を後ろで縛られ、猿轡までされた姿は客観的にこうして見下ろすと非常に滑稽なんだな、ってどこか遠くで思う。真冬だというのに汗をだらだら流している義兄。目が合う。一年以上ぶりに目があった気がした。いくらでも目を合わせているはずなのに、その、いわゆる最中に。

「ハル?お前のためにあと一回だけ我慢してやるよ」

 衛は様になりすぎている動作で義兄の傍らにしゃがみ込み、襟首と髪をつかんで顔を上げさせる。反った義兄の喉からかすかな呻きが漏れた。その声は俺の喉から出るものだと、どんなに振り切っても、隠し込んでなかったことにしても、少なくともその事実は俺と義兄の中には存在し、消えることがない。姉ちゃんも知っていたのかもしれないけど。それでどう思っただろう。俺のそんな声を聞いて、姉ちゃんは。義兄と目が合う。汗をだらだら流しているけれど、その目にこの状況への恐怖の色が見えるかというと、わからない。義兄の心のうちがわかったことなんて一度もない。宵宮のあの日から。衛は義兄の髪から手を離し、顔を伏せさせながら、何かの代弁者のような厳かな声音で言った。


「おまえがやれ」
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