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 家に帰りつく頃には先程のアイスとスカッシュによる涼しさはとっくに消えていた。家とスーパー、片道二十分ほどの道のりはいつもならさほど苦ではないけれど、こうも暑い中日陰をつくる木なんて一本もない畦道で、太陽の光を全身に浴びて走ったり歩いたりするのは流石に地獄以外の何物でもなかった。

「ただいまー……」
「あら、おかえりなさい。お使いありがとね」

 玄関の門を開けると、すぐ横の花壇で母が草むしりをしていた。あらかた草は抜かれていたようで、門を閉める僕ににっこりと笑いかけた母は、すぐさまうずたかく積まれた草をビニール袋に詰め込む作業に戻る。
 この茹だるような暑さの中よくやるなと思うけど、ガーデニング好きな母は雨の日も風の日も庭や花壇の手入れを欠かさない。おかげで我が家は年中綺麗な花に囲まれて、三年前には家の裏に小さな畑まで作ったことで毎日新鮮な野菜も食べられるようになった。
 そんな母はもう五十を超えているはずなのに、衰えるどころかますますパワーアップしている。庭や畑の規模は年々拡大しているし、老眼が老眼がと言っているわりにはこの間近所のおじいちゃんが釣って来た魚の骨抜きは完璧で、昨日は大玉のスイカを三つも抱えて家の裏にある畑から帰ってきていた。

「これ、頼まれてたやつ。卵はいつものがなかったから、安めで美味しいって店員さんが言ってたのを買って来たよ」
「ありがとう、卵はそれで大丈夫」
「ほんと? よかった」

 袋に草を入れ終えた頃を見計らって声をかけると、園芸用の長袖長ズボンという見ているこっちが熱中症になりそうな服を着込んだ母は「よっこいしょ」の掛け声とともに立ち上がり、僕が渡したスーパーのビニル袋を受け取って柔らかく微笑んだ。

「そういえば、今日はお祭りがあるけど、アサヒあんた浴衣は着るの?」

 母のお使いミッションは無事達成できていたらしい。袋の中身を覗き込んで満足げに頷いていた母は、ふと思い出したかのように顔を上げて聞いてきた。
 僕が住む地域には毎年六月上旬に開催される大きな祭りがある。と、言っても、この小さな田舎町にとっての大きな祭りであって、京都の祇園祭や福岡のどんたくなどに比べたら規模は蟻のようなものだ。それでもここの住民にとっては毎年の楽しみで、おじいちゃんおばあちゃんたちにとっては昔から続く大切な伝統行事だ。この日ばかりは普段外に出ない近所の偏屈じいさんも外に出て、祭りの最後に打ち上げられる花火をじっと見ている。
 勿論子供にとってもこの祭りはテンションの上がる存在だ。この町に住む子供たちは皆門限が五時までという決まりがあるのだけど、この日だけはその決まりがない。祭りが終わる時間までなら外出が許されるから、友人たちと集まって花火をしたり、屋台を練り歩き買い食いや金魚すくい、ヨーヨー釣りなどを楽しむのだ。

「うん、友達と五時辺りから行くつもり。浴衣は……今日は暑いからいいや、Tシャツと短パンの方が涼しそうだし。それよりお腹すいたよ」
「それより先に川にスイカ浸けたままだから取ってきてくれる? 帰ってくる頃にはお昼ご飯食べれるようにしとくから」
「うええ……わかったよ……」

 行ってきまーすと力無く言うと、母は「そうめん作って待ってるね!」と手を振った。正直そんな服着て作業できる元気があるなら自分で行って欲しい。とはいえ、この家で一番権力が強い母にそんなこと言う勇気はないのだけれども。


 スイカが浸かっている川は家からそう遠くない。十分ほど歩いた先の林には入ったすぐのところに小川がある。生い茂る木々と葉で良い具合に陽が当たらなくて、何かを冷やすにはもってこいの場所だ。
 我が家では毎年夏になると川でスイカを冷やす。別に冷やすのは川じゃなくて冷蔵庫で冷やしても良いし、そっちの方が手間も労力も少ないのだけど、この方法で冷やすのは小さい頃からずっと変わっていない。
 体力はある方だし家と川とにスイカを運ぶのは別に嫌じゃないのだけど、それでも真夏の太陽が照り付ける時に運んだりするのは面倒だと感じる時がある。だから、「冷蔵庫で冷やした方がめんどくさくないんじゃないの」と、前に母に聞いたことがあった。すると母は少し寂しげな笑みを浮かべて、「こうしていれば帰ってくるかもしれないから」と、そう小さく呟いて力無さげに笑ったのだった。それを最後に、この話題は持ち出していない。
 思えば幼い頃から続く習慣は多い。それは毎日花に水をやるとか風呂上がりにきちんと歯磨きをするとかのそういうものじゃなくて、今日みたいに毎年スイカを川で冷やしたり、散歩の時は毎回コースにある神社にお参りをしたり、新年は必ずその神社に初詣に行って絵馬に願い事を書いたりといった、日常に少し色を足したようなものだ。どれも幼い頃から変わらず続くこれらはきっと、母の祈りに昇華した願いなのだろうと思う。
 それが僕にとってどうなのかと問われれば、それはわからない。わからないけれどきっと、願っている事は母と同じなんだろう。
 ふとした時に蘇る懐かしい顔。今もなお机の上で笑顔を輝かせているその人からの連絡は、もうずっと途絶えたままだ。
 あれから何年が経ったわけでもないのにもう声すらもおぼろげになってしまった僕は、きっとあの人には会えそうにない。


 ぼんやりと昔の事を思い出しながら歩いていると、あっという間に林が見えてきた。「私有地につき立ち入り禁止」と書かれた看板を尻目に林の中に入る。ここの管理人は母の幼馴染であるおばちゃんだ。許可は毎年長電話と一緒に向こうからやってくる。

「……お、あった」

 穏やかな流れの小川は、木漏れ日が水面に反射して静かに煌めいていた。側にある木に括り付けられた紐を辿ると、大玉のスイカがぷかりと水面に浮かんでいる。緑の地に深緑の縞模様がくっきりと浮かんでいるから、きっとかなり甘いスイカだ。お昼ご飯の後が楽しみになってきた。
 紐を手繰り寄せスイカを引き上げると、それは水にぷかぷかと浮かんでいたのが不思議に思えるくらいの重さを腕に伝えてくる。これは持って帰るのが大変そうだ。

「おっも……さっさと帰ろう」

 両腕でスイカを抱えバランスを整えると、よいしょ、という掛け声と共に立ち上がる。
 林を出れば、先ほどと変わらない太陽が燦々と僕らを照らす。いい加減鬱陶しく思えてきたそれを隠してくれそうな雲はやっぱりどこにも見えなくて、本日何度目か分からないため息を吐き出しつつ僕は歩き出した。

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