chapter:幻実 (二) 「この化け物!! お前がお父さまを殺したのよ!!」 「っつ……」 冷たい言葉を浴びせられた直後、渇いた音が静かな部屋に鳴り響いた。 通夜が終わり、家族の姿しかない閑散(かんさん)とした部屋。目の前では父が棺の中で安らかな表情で横たわっている。そんな父の前で、僕は、凍えるような痛みを訴える頬を押さえていた。 奏美(かなみ)さんは、父が眠る木の桶を守るように、恐ろしい形相でこちらを睨(にら)んでくる。 今となっては、唯一の家族である奏美さんの笑顔を、僕はここ数年、見たことがない。両隣にいる旦那さんの和夫(かずお)さんと、娘さんの美紗緒(みさお)さんにしたってそうだ。彼女たちは今、顔を真っ青にして、僕と向かい合う。 「何とか言いなさいよ、化け物!! だから、私はあれほどお前を養子に迎えるっていう父の発言に反対したのに!!」 …………寒い。 身体も……心も……凍えそうなくらい寒い。 もう、誰も僕を必要としてはくれない。 そう思うと、胸が苦しくなる。だけど涙は出ない。だって僕は捨て子。実の両親からもいらないと言われた子。はじめから、誰にも必要とされていなかったことを、僕は知っている……。 僕は冷たい視線と言葉を浴びせかけてくる父の家族たちに否定も肯定もせず、背を向けた。 「人殺しの顔も見たくない。とっとと消え失せろ!!」 和夫さんの冷たく凍った刃のような言葉が、僕の胸を深く突き刺す。 僕は、彼らが言うとおり、無言でその場を後にした。 和夫さんが所有している広い家から出ると、街灯はほとんどなく、夜道は暗い。ここは高い山々に囲まれた場所――。地面はコンクリートで覆われている都会とは違い、小石が砂道を覆っている。 それに、一歩脇道に逸(そ)れれば山の中……。 この道に慣れた人間でなければ、たちまち道に迷ってしまうくらい、道は拓けていない。 僕は暗いところが嫌いだ。『自分』がわからなくなってしまうから……。 だけど、僕が恐れるのは、こんな闇じゃない。もっと深い。もっと暗い、闇。 僕は自分を守るようにして、両手を腕に巻き付け、ひとり、夜の中を歩く。 十二年ぶりに再会した家族と別れ、夜の道なき道を十五分くらい歩くと、見えてくるのは大きな庭がある、あたたかな家――。ここは、父と僕が暮らす家。 だけど、父が亡くなった今、この家には、僕以外、誰もいない。 父が僕を拾ってくれた当初は、和夫さんも、奏美さんも、美紗緒さんも、誰も僕を邪険にはしなかった。 生まれつき、色素が薄い髪や白い肌をしたわたしを気味が悪いとも言わず、容姿は誰だって違うものだし、個性があって素敵だと、わたしを受け入れてくれた。 それに、家にもよく泊りに来てくれた。 当時は、僕を悩ます兆候は何もなく、だから父も、僕の体質がどういうモノかを知らなかった。 それが、いけなかったんだ。まだ幼い僕を両親が捨てたという事実さえ追求すれば、あんな事態にはならなかったのに……。 ――僕の体質がわかったのは、僕がまもなく幼稚園に入ろうとしていた、ある日の夜のことだった。 その日、奏美さんたちは、父の家に泊まることになっていた。 僕は、この小さな村で、唯一同い年の美紗緒さんと一緒に夜を過ごすのがすごく嬉しかったのを、今でもよく覚えている。 ――誰もが寝静まった静かな夜。 突然、苦しそうな奏美さんの声と、泣きじゃくる美紗緒さんの声が聞こえたかと思ったら、誰かに突き飛ばされ、目を覚ました。 身体が痛みを訴える中、ゆっくり起き上がると、奏美さんは首を押さえて苦しそうに咳き込んでいる。 何が起こったのかと、激怒している和夫さんから視線を外したそこで、僕の体質が明らかになったんだ。 自分の身体を見下ろした瞬間、僕の心臓は鼓動を止めたかのように締めつけられ、血の気が引いていくのがわかった。 僕が見たもの。 それは――……。 僕の腕が、誰かに握られたみたいに、手の痕が赤い痣になって、くっきりとついていたんだ。 だけどそれだけじゃなくて……ふくらはぎや、太腿(ふともも)も、同じようにして痣がついていた。 和夫さんは、僕が奏美さんの首を絞めたことと――。 そして僕が、鮮血にまみれた、二十代くらいの女性に見えたことを、脅えた口調で話した。 その後の沈黙は、幼い僕にとって、すごく怖いものだった。僕が眠っていた間に、僕が大切にしている人を苦しめる。そして、寝ている間に、自分の身体に痣ができている。これはいったいどういうことなんだろう。 どうして僕が奏美さんを襲ったのかもわからないし、身体が赤い痣だらけになっている理由もわからない。 当然、僕がこれからどうなるのかもわからない。 ――この村は狭い。とても小さな村だ。今夜の、この出来事は、きっとすぐ、みんなの耳に入るだろう。そうなれば、僕はみんなに拒絶される。 ううん、違う。 拒絶されるだけなら、まだマシかもしれない。 僕はまた、捨てられるのだろうか……。 その恐怖が、幼い僕を襲ったのを、今でも覚えている。 僕は、容姿以外はみんなと変わらない、普通の人間だと思っていた。 実の両親は、容姿がおかしいっていうだけで、僕を捨てたのだと思っていた。だけど、それは違った。 実の両親が僕を捨てた理由は、きっとこのことで、だったんだ。 だから僕は、僕を捨てた実の両親を恨んではいけない。 ……そう、自分に言い聞かせ続けた。僕が、奏美さんを襲ってしまったその日から、ずっと……。 それからというもの、和夫さんたちが僕を見る目は変わった。僕が恐れていたことが、現実になったんだ。 この人口が少ない村の人々に、僕の体質のことが知れ渡った。 僕は、村のみんなから怖がられる。 ただ、ある人間を除いては……。 ――そう、僕を拾った清人(きよひと)さんだけは、先が短い老いぼれだからと、そう言って、僕を見捨てなかった。 それがどんなに心強かっただろう。 僕はけっして、ひとりきりじゃないと――愛されているのだと、そう思えた。 だけど、僕を取り巻く運命は、みんなから拒絶されるようになってから、どんどん過酷になっていった。 今までは何事もなかったと思っていた光景――それが、実は地獄だったことが判明した。 ……昼間の静かな部屋は、ラップ音が鳴っていて、誰かが走る足音にも聞こえた……。そして、ひとつの恐怖に気がつけば、もっと大きな恐怖がやって来た。夜になると、霊体たちは恐ろしい姿で僕の目の前にやって来るようになったんだ……。 ……僕を、より恐怖へと引きずりおろすために……。 僕は、夜が来るたびに怯えた。 霊体たちがあらわれる夜が怖くなった。 だったら眠ってしまえばいい。 眠りさえすれば、『彼ら』を見ることはなくなるし、怖くもない。 そう、考えた時もあった。 だけど、僕が眠ってしまえば、また奏美さんの時みたいに、今度は僕を拾ってくれた、父さんを襲うかもしれない……。 そう思うと、夜も眠れなくなった。 そして眠ることを拒絶した僕の身体は、みるみるうちに衰弱していった。ついには、食べることさえもできなくなり、太陽が昇っている間も、霊体たちは僕を襲うようになった。 傍に、誰がいようとおかまいなしに……。 ある日、眠ることも食べることも拒絶した僕を見かねた父は、かねてからの知り合いだった、霊媒師の倉橋 千歳(くらはし ちとせ)さんに相談した。 倉橋さんは僕の顔を見ると深くうなずき、そっと言葉をはじいた。彼が言うには、なんでも僕の魂はとても綺麗で力が強固なのだそうだ。 あの世のモノはこの世界に実体化するため、僕の魂を欲しがるのだとも……。 だけど、僕の魂は汚れていないから、霊体たちは魂を奪うことが出来ないらしい。 だから彼らは僕に恐怖を植え付け、魂を汚れさせるのだと言う。 どうやら僕は、そういう運命の星に生まれてきたらしい。 事実を知ったところで、どうすることもできない。 僕は途方に暮れた。だけど霊媒師のところへ行ったその日から、あれほど怖かった毎日は、まるで何事もなかったかのようにすっかり消えた……。 きっと、倉橋さんが何か対処をしてくれたんだと、そう思った。だけど、本当は……。 奏美さんが言うとおり、父を殺したのは僕だ。だって、思い返せば、倉橋さんと会ったその日から、父はおかしくなった。 おかしくなったというのは、気が狂ったとか、そういうことじゃない。以前よりも、父の食欲が落ちたんだ。 倉橋さんのところに行く前までの父は、たくさんとは言えなくても、食事は毎日三食、しっかり摂っていた。それが二食に減った。 けっして太っているとは言い難かったけれど、痩(や)せすぎてもいない体系だったのに、食事を摂取しないことで、日に日に頬は擦り切れ、 皮膚だって健康的な赤みがかった肌をしていたのに、茶色くささくれていっていたように思う。 僕が愚かだったんだ……。 自分の体質は倉橋さんのおかげで治ったとばかり思って、有頂天になっていた。でも、本当は違った。 それは、今夜、倉橋さんが言った『身代わり』っていう言葉から理解できた。 たしか、霊媒師には『写し身』っていう、誰かの苦痛を別の人に渡すことができる方法があると聞いたことがある。 もしかすると、父は僕の身代わりを買って出たのかもしれない。 僕の代わりに父が犠牲になって、だから倉橋さんに会ってから、僕の霊媒体質が軽減したんだ……。 僕はどこまでも他人を不幸にする。僕が生きていれば、誰かを犠牲にしてしまう。だからといって、僕がこの世を去っても同じこと……。 汚れた魂を手に入れた霊体は実体化して、誰かを恐怖に陥(おとしい)れる。 僕はどこにいたって、みんなを不幸にする存在なんだ。 ……いっそのこと、どこか人がいない場所に行ってしまいたい。 だけど僕の細い足じゃ、どこにも行くことができない。 それに、僕の身代わりになってくれた父がいなくなった今、僕の体質が以前と同じレベルになることもわかっている。 きっと、食べることもできなくなるだろう。 もし、仮に、僕がここから出て行ったとしても、力尽き、のたれ死ぬのがオチ。 僕は……死んでもいけないし、生きていてもいけない存在なんだ――。 |