Monday

「お、つ、か、れ、さ、ま!」
「…。お疲れさまです」


そしてさようなら。とその場を去ろうとすると、その人は「え!?ストップストップ!」と僕のコートの裾を掴んできた。ああ、面倒くさいな。言葉にはもちろんしない。顔にも出さない。僕はただニッコリと笑って、何ですか?と問う。人一人いない、静かで尚且つ薄暗い祓魔塾の廊下。いつもと変わらない声量で喋ったとしても、何十メートル先にも届いてしまいそうに思えた。


「そんな裏のある笑顔も素敵ね。好きよ」
「ていうかなんであなたがここにいるんですか。不法侵入ですよ」
「平気。理事長にお許しを貰ったから!」


あのくそピエロ。余計なことしやがって。頬がひくりと痙攣する。目の前の女性はそれに気がついているだろうに、にこにこと少女のような、屈託のない笑顔を僕に見せてくる。ため息をついても、「思い悩んでいる雪男くんもかっこいいわね」とそんなことを言ってくるから、たまったものじゃない。この人、苗字名前さんはいつでもどこでも僕の前に現れる。ストーカーと言っても間違いないじゃないと思うけど、本人に言ったらすごく怒る。
クラスの女の子よりも、ずっと女性らしいその人。実際、この人はもう成人済みの大学生だから、当然と言えば当然だ。それでだ、どうして僕はこんな大人の女の人に毎日のように口説かれているんだろう。いや、きっかけは分かっている。とある日の仕事で魔障にかかったこの人の手当てをしたのがそれだ。自分で言うのもどうかと思うけど、一目惚れ、を、されたらしい。


「雪男くん。夕飯はどうするの?」
「…兄が用意してくれます」
「兄?お兄さんがいるの?会いたい!」


嫌ですよ。と笑顔を崩さず言うと「あはは、すごく嫌そう」と暢気に笑う。苗字さんは兄さんのことを知らないし、兄さんも苗字さんを知らない。兄さんに苗字さんのことは話したことがないし、苗字さんにも、初めて兄さんがいることを話した。やっぱり言うべきじゃなかったか。今さら後悔しても、遅い。


「お兄さんもエクソシストなの?」
「いえ、まだ訓練生です」
「え、お兄さんなのに?」
「兄はつい最近悪魔が見えだしたばかりなので」
「へぇ…そうなんだ」


私と同じ時くらいかな?と言われて、ああ、確かにそうだったかもしれない。なんて思った。あなたと会ったのはまだ寒い日の続く初春のころで。ちょうど父さんが死んだ時期で。無意識に僕の視線は床を向いていた。だけどそれを追いかけるように、彼女は僕の視界に入ってくる。どうしたの?お腹痛いの?なんて、腰を折って、真下から僕を見上げる。僕はもう、いい加減子どもじゃあないんだけど。


「雪男くん」
「…なんですか」
「可愛いね」
「褒めてないですよね。それ」


そう?そうかもしれないね。なんて、少なくとも僕なんかよりもずっと可愛らしく笑うその人に、ドキッとしないわけじゃない。きっと兄さんに会わせたりなんかしたら、兄さんは今よりもずっとうるさく…、賑やかになるんだろうな。だから、会わせたくない。言っておくけどそれは、嫉妬や独占欲なんかとは、断じて違う。ただ僕は面倒になっちゃうのが嫌で、嫌で。そう、これはただの…「雪男!と、あれ?誰?」…ああ、もう。


「…兄さん……」


本当に、タイミングが悪いんだよ。廊下の向こうから歩いてきたのは間違いなく空気の読めていない兄さんで、苗字さんを一瞥すると、ポカンと口を開けて、目を丸くしていた。次に兄さんを見る。なあなあ、こいつ誰?と何も知らない兄さんは、暢気に首を傾げていて、少しイラッとした。


「お兄さん?雪男くんの?」
「おお!奥村燐っつーんだ!お前は?」
「わ、私は苗字名前。あ、あれ、もしかして双子?二卵性とか?」


苗字さんは少し、混乱しているように見えた。双子だったことに驚いたのか、似てないことに驚いたのか、兄が料理なんかするように見えなくて、僕の方が兄に見えるとか、そんなことを思ったのか。そんな彼女の言葉を僕よりも先に兄さんが肯定して、そして、「よろしくな!名前」と彼女に手を差し出した。思わず額を押さえる。兄さんは結構な礼儀知らずで、少し困る。


「…兄さん、仮にも年上なんだから」
「え?あ、悪ぃ!」
「だから、悪ぃじゃないでしょ」
「ふふ、なんだか雪男くんがお兄さんみたいだね。びっくりしちゃった。でも仮にもなんて。私そんなに子どもっぽいかな」


兄さんの頬が、少し赤くなったのには気が付いた。けど僕は苗字さんの微笑み方に違和感を覚えていて。なんというか、こう、年相応というか。いつもは女の子みたいな笑顔をしているのに、今は苗字さんがすごく大人に見えて、少しだけ、悔しい気分になったのはきっと間違いではないだろう。それでもあの幼い笑顔を見ているのは僕だけなのかと思うと、ちょっとした優越感みたいなのも、感じるような。はは、これじゃあまるで…。と心の中で自分を嘲笑う。いや、そんなことは認めない。ただ、彼女との時間はもう僕の日常になりつつあって、鬱陶しいと感じる半面、どこかまんざらでもない自分だっているのは事実。開き直るけど、誰だって好きだなんて言われたら、悪い気はしないだろう。それがクラスの女子とはまた違う、普段なら関わることなんてないような人だったとしても、そうだと思う。
兄さんと苗字さんが楽しそうに何か会話しているのを、まるで遠くの景色を見ているみたいに眺めいると、苗字さんは僕の視線に気が付いたのかばちりと目があった。にっこりと微笑んだその顔は、改めて本当にこの人は大人なんだなと感じさせる。ああ、なんでこの人は、まだ子どもの僕に好きだなんて言うんだろう。さっきまではもう子どもじゃないんだからとか思っていたくせに、自分もまだまだ都合がいいんだな、と再認識した。



月曜日
僕は子どもで、あなたは大人back